Shell Clash
沈む夕陽が、1日の終わりを告げる。
人が生命の恵みを太陽から別のモノ鞍替えして、既に400年余りの時が経つ。しかし機械ではない人間は「はい、そうですか」とすぐにその生活サイクルを変えられるわけでもなく、かつての地球のような1日の始めと終わりを求めずにはいられなかった。
それが、たとえ仮初めのものでしかなかったとしても。
閉ざされた世界に造られた日没の中、男の年寄り…ひらたく言ってしまえばじいさまが、作業の手を休めて射し込む赤い人工の陽射しに目を細める。
「…記憶になくとも、祖先から受け継がれる体が…忘れないのかのう」
もう記録映像でしか見ることのできない、故郷の大地の光景を。
郷愁…記憶にはないのだから、それは錯覚にしか過ぎないのかもしれない。しかしじいさまは不思議と、懐かしいような哀しいような、そんな気分になった。
懐かしいついでに、目下の仕事に頭が戻る。
「おっと、いかんいかん。はよう済ませんと、エルトンめがうるさいわい」
ぶつくさと文句を言いながら、じいさまは再び作業を開始する。着込んだつなぎの作業着から節くれだった手指から、果ては茫々の白髭までも青い染みで汚しながら。
ギチャン…ミチリ… と湿った何かを弾くような音が、この寂れた街外れに響く。見てみれば、じいさまが手にしているのはレーザーカッターやレンチといったごくごく一般的な工具ではなく、メスや止血管といった外科手術器具に酷似していた。人間用のものと比べて遥かに大きいものではあったが。
「ふぅ」
一段落したのか、手を休めると左の袖で額の汗を拭った。そんな時のことだ。作業の手を休めたおかげで聞こえてくる
ぺたん…ぺたん……
街の人間など滅多に来ないこの区画に、引きずるような、それでいて軽い足音。それがじいさまのすぐ近くまで来て…
ぺた
止まった。
(ん?)
怪訝に思って周囲を見渡しても、どこにも動くものは見当たらない。
(はて? 面妖な)
気になって、じいさまは“そこ”から飛び降りた。年齢を感じさせない軽やかさとそれ以上の自然さは、じいさまがこの動作にひどく慣れ親しんできたことを伺わせる。
そして…“これ”の巨体の陰に隠れて見えなかったのだろう、じっと見上げるふたつのくろいひとみと目が合った。
「………」
黒い瞳のもちぬしは、じっと見上げてピクリとも動かない。まだ7・8歳くらいだろうか、お世辞にも綺麗とは言い難い薄汚れた服装に、擦り傷切り傷だらけの身体。おまけに靴も履いていない。そんな男の子がじっと見上げて佇んでいた。
年に似合わぬ真剣な眼差し。こんな目に出くわすのは何年ぶりだろうか? そもそもこんな棄てられたような場所に人が来ること自体、珍しいことではあったが…軍にいた頃も含めて、じいさまには随分久しぶりに思えた。
「何を見ておる? 坊主」
話しかけても、男の子は目を“それ”から逸らさない。じっと…仇でも睨むような、それでいて縋るような、見ている方が緊張を強いられる、そんな不思議な目で“それ”を見つめ続けた。じいさまは悟る。この目は昔よく見たものだ。
生きるか死ぬか…その瀬戸際に立たされている者の…目だの……
「……」
じいさまはしばらく様子見てみることにした。何か“面白いこと”が来そうな予感に、なぁに時間はあるさ、そんな風に思う。
「これにのれば…」
ぽつん…と、まだ変声期前の硬質の声で、雫のようにこぼれ落ちる言葉。
「…?」
「これにのれば、あの“くらいところ”でもへいきなんでしょ?」
男の子の見上げる視線の先にあるもの。大きく…攻撃的な殻に覆われた、人型をした剣尾類。
それは人が昏い虚空で生き残るために用意した、厚く、硬い殻。
第1話 生存闘争
星々の間隙に満ちる昏き虚空。そこに満ちる生命潮流に沿って、船たちは行く…
一隻当たり三万人余を収容可能な巨艦・コロニー船が72、各コロニー船間を行き来し物資を運ぶ大型輸送艦21、“外敵”に応じるための護衛艦の数18。巨鯨のごときコロニー船の周囲を泳ぎ回る、魚のような中型・小型の輸送艦。哨戒艇はそれこそ無数。
そして… 更に小さな虫のように虚空を駆け巡る、奇妙に有機的なフォルムを持つ灰色の機影。
人が踏みしめる大地と降り注ぐ日の光を自らの手で葬ってから5世紀が経つ。星々の海を渡る110余の船から構成される巨大船団。それが、今の人類の住処だった。
失った太陽の光に替わる力を不可視の微粒子・ネクタリオンに求め、仮初めの生命圏・バイオスフィアを維持しながら太陽系に代わる、人類に“好意的”な星を探して…
そこに至るまでに何の障害もなかったわけではない。エネルギー問題がネクタリオン粒子の利用によってクリアされても、人が重力のある星の上で生きるように己を進化させた種である以上、宇宙空間での人の心理的適応、社会体制、教育… 多くの困難が生じた。
…しかし人類はそのことごとくを克服して行った。主体の環境化・自らの形態変化を行うことなく環境を強制し自らに適合させる。人類という種の持つこの独特の能力は、地球環境を離れても遺憾なく発揮されたのだ。
そして、人が宇宙空間という新たな環境での生存に適応し、新天地を目指すという本来の目的にようやく本腰を入れようとしはじめた頃、“それ”は…
「…今から20年前、航宙歴406年の“アバドンの群れ”を最後に、現在は人類の前から姿を消しつつあります」
コロニー船“アーク31”第8居住区画ウェストブロック。一般勤務者の多く住む第8のここ、ウェストブロックは年齢12〜15歳までの子どもたちが通う教育施設、ミドルスクールと16〜18歳までの若者が通う教育施設、ハイスクールとしてその多くの領域が割り当てられている。
またこれとは別個に、開拓機構軍施設にほど近い第5居住区ノースブロックには年齢的にハイスクールの年代の若者たちの通う開拓機構軍士官学校が存在していた。
アース標準時13:40。ミドルスクールでの最終学年、第3学年のある白亜の建物の2階、教室3−Bは航宙現代史の授業の真っ最中であった。
「以後5〜6個体からなる小規模の襲撃は幾度となくありましたが、かつてのような大きな群れによるものはなく。全て開拓機構軍の攻殻機兵部隊によって殲滅。出現頻度も減少の一途を…」
痩せぎすの男性教師が、教室前面にあるスクリーンの中のペン型をしたポインタを移動させ、チェック項目を蛍光ピンクでマーキングした。手元のボードにスクリーンと同内容のものが出力されており、そこに置く指をなぞっているところを見ると、このボードとスクリーンが同調していることがわかる。
教室内の座席は教師のいる教卓を前に置き、段差を持って扇形に配置され、40人余りの制服姿―男子は紺の詰襟、女子は同色のブレザー―の生徒たちが、皆一様に個別のノートボードに向かっている。
そんな教師の講義とカタカタと生徒たちがボードのキーを打つ音のみが響く空間に、歓迎されない音が闖入した。
プシュン…
圧搾空気の立てる音とともに教室の後部ドアが横にスライドし、現れたのは制服姿の少年。
教師と生徒たちの目が一斉に少年に向けられる。身長は160センチにも満たないだろうか。ミドルスクールの第3学年、この世代の15歳の平均身長からすれば小柄な方である。この年頃ならそれなりに異性の目など意識していそうなものだが、髪などはロクに手など入れていないのかバッサバサな上に、自分で切っているのか毛先は全く揃っていない。石鹸ででも洗っているのか髪質なのか、ツヤは全くないが。
「日下蛍士(くさか けいし)君。事情は保健の先生から聞いている。早く席に着きたまえ」
「はい…」
少年、蛍士はやや蒼褪めた顔で頷くと、そのまま段差を歩いて指定されている座席に着く。途中クスクスと自分を見て小さく笑う声が聞こえた。クラスという小さな社会では、失敗のたぐいの情報はすぐに広まる。
(ふぅ…飽きないもんだな)
いつものことなのにさ… とどこか諦念を含んだ溜息をついた。
4時間目の体育の授業中、無重力下での運動能力を高めるための非G(ヌル・ジー:無重力)ルームで蛍士は胃の中の全てを吐き戻して気絶した。無重力恐怖症(ヌル・ジー・フォビア)―7年前のあの日からずっと、蛍士はこの症状に悩まされている。
自分を留め置くものがなにもないあの感覚を味わうと、鼓動が加速し呼吸が荒くなって、ひどく気分が悪くなり…そのままにしておくと気を失ってしまう…
無重力下でのみ引き起こされるパニック障害。この症状は通常ごくごく幼い子どもが一時的に発症するものとされており、年を経るに従って消えて行く。蛍士の年齢までこの症状を持っている者は極めて稀なのだ。かといって誇れるものでは決してなく、今のように物笑いのタネにされてしまう。
去年まで克服したいと努力して来たつもりだった… でも、一向に改善される気配はない。
ノートボードを座席の机の上に引っ張り出すと、ボードの上に紙が貼られて次の言葉が書かれていた。
「………」
それは、嘲り見下ろす者のことば。
またも聞こえてくるクスクスという忍び笑い。
もうずっと“こう”なので“こういったこと”にはもう慣れっこにはなっていた…つもり。首謀者を見つけてどうこうしようとかも思わない。無駄なことを知っているから。
…それでも心に何かしらの衝撃が走ることは拭い去れない。やった側にさほどの悪意はなくとも、された側にとってもそうだとは決して限らない。ずっと向き合って来た問題だからこそ、痛みは…消えない。
紙をむしり取るとクシャクシャと無表情に丸めて、捨てようと思うがゴミ箱が見当たらないのでそのままズボンのポケットに突っ込む。
ふと、馴染みの不安がよぎった。
(僕はずっと、このままなのだろうか…)
怖いままだったから。“殻(シェル)”を操れるようになった、今でも…
あまたの灰色の機影が縦横無尽に黒に塗りつぶされた虚空を駆け巡る。その機動は通常の宇宙艇のような慣性に縛られることがなく、人間の感性から捉えるとひどく異質な動きに見える。直進したかと思えば、全くそのスピードを損なうことなく後退し、上昇し、曲がり、下降する。言うなれば上から下に落ちるものが、一瞬も静止することなく上に、横に、前に、後ろに“落ちる”。想像し難いが、そんな動きなのだ。
コロニー船とは独立した別系統のネクタリオン粒子変換機関“エリクシル・エンジン”を搭載した、開拓機構軍の所持する機動兵器。
有人攻撃型生体外殻、攻殻機兵ストライク・シェル(Strike
Shell)
棘のある装甲に覆われた姿は甲殻類を連想させるが、人と同じく四肢を備え、腕に相当するマニュピレーターは極めて繊細に動いて幾多の武装を自在に操り、エリクシル・エンジンの生み出すAGP(Aimless
Gravity Potential:無志向性重力ポテンシャル)が慣性に捕われない動きを生み出す。
人類が宇宙での生存競争に打ち勝つために“外敵”の骸から造り上げた“外敵”と同等の存在。
それが、灰色の機影の正体だった。
現在この宙域では、開拓機構軍の現役攻殻機兵パイロット“シェルライダー”と開拓機構軍士官学校・通称コンバットスクール、第7校シェルライダー養成課程“機兵科”の生徒の合同訓練が行われていた。
1機のシェルの尖った指がトリガーを引くと、エリクシル・エンジンの生み出す余剰AGPを利用してグラヴィティ・ライフルが弾体を撃ち出す。弾体は移動中のシェルに命中、赤のペイントが腹部中央・機関部を染める。
『P−23、撃墜』
『なにやっとるかぁっ!』
この宙域にいるシェルのパイロット…現役パイロット、機兵科生徒問わず、通信機に怒鳴り声が轟いた。
『P−17、19、撃墜』
観測オペレーターの告げる報告が、更に彼の怒りを煽る。当然だ、彼が手塩にかけて鍛えて来た選り抜きたちが、たった1機の…それも機兵科の生徒、言うならばヒヨッコに次々と撃破されていくのだ。
『くっ…貴様らっ、スクールからやりなおしてこいっ!』
見れば、もう既に十数体のシェルが機関部を赤く染めて実習護衛艦“オキュペテ”のある待機ライン内を漂っている。
灰色の機影が敵味方入り乱れる模擬戦の中、一際異彩を放つシェルが1機。虚空を駆け巡るそのスピード自体は他のシェルと大差はないのだが、その機動の自在、上下前後左右縦横斜昇降急加速急減速を操る腕が桁違い。その機動に着いて行けるシェルは皆無で、敵コードを持たされた機体のことごとくが死角を突かれ、反応する間もなく模擬弾の餌食となって行った。
現役パイロットチームと機兵科生徒チームの対抗戦として行われているこの模擬戦。開拓機構軍に攻殻機兵が採用されてから今日まで、伝統的に実施されて来たもので、本来の主旨はシミュレーターの操縦がいっぱしになって天狗になる頃合の生徒たちに、現役シェルライダーたちが“実戦の厳しさ”を教え込むというものだったのだが…
見れば、現役シェルライダーたちの機体は残すところあと3体にまで減らされていた。“あの1機”の調子では、ゼロにされるまで残り3分も要らないだろう。
艦内で怒鳴り声の持ち主がコンソールに向かうオペレーターの青年に尋ねた。髪に白いものが混じった渋めの男なのだが、筋骨たくましく中背中肉でダークブルーの軍服はぴっちぴち。
「…クリス、あの機体、S−13のパイロットは何者だ?」
最早その声に先ほどまでの力はない。問われた青年オペレーター、これまた青の軍服を着たクリス少尉は軽快にキーを叩くと、S−13搭乗者データを自前のモニターに出力する。その経歴を要約してから報告しようと黙読を開始するのだが、段々とその目が段々と驚きに見開かれて
「第7校機兵科2年、16歳…へえ、飛び級してますね」
己でも気づかぬうちに言葉を差し挟む。ほんの2〜3秒の後には口に「こりゃまいったね」といった風な愕然とした奇妙な笑みが浮かんだ。
「名前は?」
問われて答えるその声は笑っている。
「マハ・エヴァンヴァッハ… ははっ! カーツ大佐、なんと女の子ですよ!」
「なんだとおうっ!!」
一片の朱にも染まらぬ灰色の機影はただ1機だけ。
バイザー越しの青…と言うには深く濃い瞳が、3Dで立体図化されたセンサーの索敵状況に向けられる。赤い光点…敵影は、皆無。
セイフティ(安全装置)をロックすると赤いペイント弾倉を積んだグラヴィティ・ライフルを右腰部格納スリットに固定。ストライク・シェルS−13はもう用は済んだと言わんばかりに四肢を折りたたんで外殻内に収容、コクーン形態に移行した。
『やったぜ!』
『現役シェルライダーがなんだってんだよ!』
『ざまあねぇな!』
連携のために回線をオープンにしていたため、次々に飛び込んでくる友軍機―ここでは機兵科生徒の乗り込むシェルのことだが―パイロットたちの勝利に喜ぶ声。この模擬戦で機兵科生徒が勝利することは今だかつてなかったのだから、それも無理はないのだが
「……」
深青の瞳の少女、マハ・エヴァンヴァッハは興味なさげにその両目を閉じた。
(…くだらん)
そう、確かにくだらなかった。
敵残存兵力はゼロ、味方機の数は自身を含めて7機が現存している。
機体の仕様・装備は共に同一で、パイロットの技量以外は全て互角の条件の模擬戦。敵、軍現役シェルライダーの乗り込むシェルが21機。味方、機兵科生徒のシェルが自らを含めて21機。内、マハが単独で撃破した敵のシェルは17機… 熟達パイロットの駆る敵機の約7割を、16歳の少女が1人で落とした計算になる。逆を言えば、マハ以外の20機総がかりでやっと敵4機を落とし、その内14機が返り討ちにあって撃墜されたのだ。
その結果に、何を喜ぶというのだろう? 相手が本当の“敵”ならば、死んでいるかもしれないというのに…
くだらないと思うのは、何もそれだけではない。軍現役シェルライダーたちとやらも、そうだ。
『実際の宇宙空間での戦闘というものは、訓練とは違う』
『“ティルヴィング・ヴァルキュリア(魔剣精霊)”か… シミュレーションでどれほど…』
今までも軍の現役シェルライダーと訓練を行う機会はあったのだが、彼らはシミュレーションで、またはヌルG演習場の訓練でマハに敗れる度にことごとく、このような似たり寄ったりのことを言ったものだった。
だがどうだろう。結果はシミュレーションと大差はないではないか。
20年前に起きた“アバドンの群れ”と呼ばれる大襲来から現在まで、戦闘らしい戦闘もないというのに。現役のシェルライダーたちの多くが20〜30代の男たちだ。その中で“実戦”を経ている者など、時間的にほぼ皆無に等しいというのに
(次には、きっとこう言うのだろうな…)
『模擬戦は、実戦とは違う』と
「フン…」
あまりのくだらなさに、溜息をつきかけるのだが… その時突如としてHMDの左上隅にウインドウが開く。そして
『マハ! なぜ指揮に従わないっ!!』
ライダーヘルムのイヤホンに届く、耳にうるさい怒鳴り声。
(…またか)
仕方なしに瞼を上げると、怒りに燃える瞳と目が合った。白い肌に、著名な芸術家の作なる像のように彫りの深く整った顔立ち。少年…と言うよりはもう、青年と言ってしまっていい年頃の男だ。
そのマハとは異なる淡いブルーの目が、睨み据えて来る。
(コンラッド・ノートゥング)
機兵科の2年次席。今回の模擬戦における機兵科生徒陣営の司令を勤めていた男だ。
首席は勿論マハなのだが、男が大半を占める開拓機構軍士官学校機兵科においては彼女のような存在は完全に異端であり、司令には投票で次席であるコンラッドが選ばれた。
マハが選ばれなかった理由は、女であること、それだけではなかったのだが…
その形の良い眉根が少しだけ寄る。どうにもこの男は好きになれない。別に好きになりたいわけではないが… 飛び級でコンバットスクールに入学して以来、何かと自分につっかかってくる。今度もそうだ、誰とも組みたくもないのに無理矢理部隊編成の中に自分を入れたりした。
(…そう言えば、小隊だったのだな……)
模擬戦開始前にコンラッドとラグという男と、そして自分の3機で第1小隊を編成…とかなんとか言っていた… と、ひどく遠い情景のように思い出す。
「………」
鬱陶しそうに、また目を閉じようとするのだが
『まただんまりか、答えろ!』
重ねて問うてくるその声がうるさく、マハは険の篭った目でコンラッドを睨みつけた。
(うっ…)
深青の瞳が、苛立ちを隠そうともせず氷炎のごとくコンラッドを睨み据えてくる。見た目の美しさ以上に凄絶な、マハの睨みにビビらない機兵科の生徒は皆無だ。“ティルヴィング・ヴァルキュリア(魔剣精霊)”の2つ名は伊達ではない。そのことは近くで見てきたコンラッド自身、よく知っていた。
『…貴様の指揮に従っていて、勝てたのか?』
少女の抑揚のない声が冷、と問い返す。
「それは…」
結果論だ… とコンラッドは言いたかったが、言葉は続かない。“本気”のマハの機動に着いていける者など機兵科にも軍にも皆無なのは、関係者ならば誰もが知っている。
そんなマハが隊を組んで行動すれば、逆に攻殻機兵のパイロット・シェルライダーとして類稀なるその特質を潰しかねない。今回彼女がしたように集団の中では、独自の判断で遊撃的に戦うのが戦術としては最も正解に近いだろう。
ならば何故? 自分は…
(俺は…)
と、思いかけた時には既に、コンラッドのHMDからマハのウインドウはあっさりさっぱり消えていた。
実習艦との連絡と非常事態用の回線のみを確保しておけば問題ないと判断し、益のない会話を全て打ち切りマハは友軍機からの通信を全てカットした。
バイザーHMDのスクリーンを最大にして360度、視界全てを星々の海に切り換えてエリクシル・エンジンを停止。“落ちる”力を失ったシェルが、残った小さな慣性で漂い出す。
…見渡せば、かそけき光点あまた穿たれし黒い海。音を運ぶ風は無く、在るのは替わりに無限のしじま。
「………」
なのにいつも、決まってこんな時に聞こえてくる。遠い記憶の彼方から届く、聞こえなかったはずの“声”。
幼い自分よりも小さく細い手が自分をゆっくり突き飛ばす。遠く小さくなる顔は脅えと恐れを滲ませ泣きそうになりながらも…わらってた。
気密服のヘルメット越しに、ぱくぱくと口が動く。
「ああ、いきているとも…」
それはだれにこたえたものか。
マハの目が、先ほどとは打って変わって和らぐ。それはとても小さかったけれど…
ひどく、寂しげな笑みを浮かべながら。
「一度引き抜かれれば敵のことごとくを滅ぼす、伝説の魔剣の銘、か…」
実習護衛艦オキュペテのブリッジで、カーツ大佐はしげしげとクリス少尉のコンソールモニターを覗きこんでいる。
「シェルに関する能力、スキルは全てA+。殊にグラヴィティ・ダイヴ(志向性重力降下機動)の操縦適性に関しては現状の軍の判断基準では測定不能…」
出力されたデータをクリスは告げる。その声が少し早口なのは、興奮のせいか驚愕のせいか。
「信じられませんが計測数値のみを見るならば、現在の開拓機構軍シェルライダーで彼女を超える能力を持つ者はいません」
「ポウル准将の孫娘か… まさか、これほどとはな…」
カーツの鍛えた精鋭は皆、マハの1機に撃墜されたようなものだ。魔剣精霊、ティルヴィング・ヴァルキュリアの2つ名を持つ少女の噂。聞いていないわけではなかったが
(訓練生をなめてかかったバカどもの、負け惜しみではなかったわけか)
しかし…
「……」
「……」
黙り込む2人の視線の先には、少女の映るバスト・ショットの画像。すっきりと通った鼻梁に薄い口元。黄金色よりもはるかに白に近い、ベリーショートと言うのか短く切ったプラチナブロンドがサラサラとこれまた白い頬にかかる。征矢のように射すくめる瞳が青く深く、不思議な魅力をたたえていた。
「ちょっとキツめな感じですけど、綺麗な子ですね…」
「こりゃああと5年…いや、3年も経てばえれえ美人に…」
男2人がそんな会話をしているところに割り込むように
「大佐、そろそろ小惑星帯に入りますが」
クリスの隣のコンソールに向かう女性士官がつっけんどんに告げた。そりゃあ隣で女の品定めをするような会話をされては、同じ女性として少々不機嫌にもなろう。
険のこもった翠の横目でじろりと見られる。
(うっ…)
そんな態度に気圧されつつ、カーツ大佐はゴホンと咳き払いをしたりして間をつないだりしながらマイクに向かった。
「うむ… これより訓練第2フェイズを開始する。撃墜された者も戦線に復帰してよし。模擬弾倉を積んだコンテナを撃ち出すから各自補給するように。シナリオは小惑星帯での戦闘。敵にばかり気を取られていると岩石と衝突だ。気を抜くなよ!」
Shell Clash Ver1.0
Survival Wars T
開拓機構軍兵、士官学校機兵科生徒たちの乗り込む攻殻機兵の数、総勢合わせて40機余りが前方に迫る岩礁… 星々の合間にある障害物・小惑星帯を捉えた。
「そろそろダミーブイを射出しろ」
「了解、ダミーブイ、射出」
カーツの命令をクリスが復唱。キーを叩くと艦に3基用意されたカタパルトの内、中央の1基のハッチが開き、長さ20メートル余りはある灰色の六角柱が撃ち出された。
六角柱は撃ち出された初速を落とすことなく、瞬くに艦前方に展開するシェルたちを追い越し小惑星帯に突入すると
「展開」
音もなく砕け散り、わらわらと十文字の棘を生やした銀の球体を無数に吐き出した。
「…ランダム配置終了」
先ほど睨みとともに小惑星帯の接近を報告した女性士官がカーツを振り仰いだ。その勢いで編んだ長い金髪がゆれる。
「設定レベルは…どうします?」
設定レベル。それは仮想敵として配置されたダミーブイの危険度レベルを指す。Eが最も索敵能力、攻撃力、機動性が低く、Aがその全てにおいて最も高いとされているが…
「そうだな。ヒヨッコたちにはC、不肖の弟子ども…現役の連中にはA、そしてS−13・魔剣精霊さまには敬意を表してA++(エーダブルプラス)で対応するように」
ダミーブイは補足した機体の認識コードごとに、個別の設定で能力を発揮することが可能なのだが…
「A++って…そんな個体が現実に確認されたことはありません」
これまでの戦いの中で、最も高い能力を持つ“敵”に相当するのがA+。しかるに現役の軍シェルライダーの訓練で出してもA+どまりであるというのに… 士官学校の訓練生相手の模擬演習で行う設定ではない。
「そんなことは百も承知だよ。だが見てみたいと思わんか? あの子がどれほどのものなのか」
にやりとカーツは不敵な笑みを浮かべてマイクに向かう。
「各機エンジン起動。センサーをダミーに再設定し、敵の接近に備えよ」
マハが目を向ければ、もうセンサーを拡大せずとも無数の岩塊漂う一帯が見て取れた。
(小惑星帯からの襲撃、という想定での模擬戦…)
過去にそのような条件での戦闘が数多くあったということは記録から知っていた。
今度の訓練は先ほどのように同型機との戦闘ではなく、ダミーブイ相手になるために設定を変更せねばならない。エリクシル・エンジンを起動し索敵センサーをセット。設定変更のために初期化してダミー用に再設定を…
(…?)
全てが初期化された一瞬…ほんの一瞬、小惑星帯の中に小さく赤い光点が視界の端をよぎった… ような、気がした。
索敵設定が初期化された状態では、通常何も検知されることはない。何よりも最優先される唯一の例外を除いて。
(プログラムのバグか?)
と片付けてしまいそうになるのだが… しかし同時にマハの中で何かが警報を鳴らし続ける。日常、というものの危うさを、自分は誰よりもよく知っているはずだと。
弾かれるようにセンサーの索敵モードを全周囲に切り替え、感知精度をMAXに、検出定義は…“敵”の持つ独特のネクタリオン粒子変換・エリクシル反応
その結果は…
「なっ!」
マハの目が驚愕に見開かれ、思わず小さな叫びが上がる。
訓練目標の配置された小惑星帯は唯一の“例外”で満ち溢れていた。
声を上げたのはなにもマハだけではなかった。
「こんなことって!!」
実習護衛艦“オキュペテ”ブリッジにて、小惑星帯の観測情報をチェックしていた女性士官の目が驚愕に見開かれる。
シェル各機がエリクシル・エンジンを起動した途端、コンソールモニターに映る艦前方小惑星帯一帯が全て赤の光点に埋め尽くされたのだ。
「どうした!」
女性士官のただならぬ様子に、カーツが脇から観測結果を覗き込むと
「っ!!」
その表情が掻き消された。
「…エリクシル反応多数…なおも増大。同数の重力波を検知…」
顔から血の気の一切を失いながら、それでも職務を全うするため、女性士官はその声に力をこめて気丈に告げる。
「間違いありません!」
宇宙を漂う今だ解明しきれていない謎の粒子、一説には生物だとも言われる“ネクタリオン”と、銀河を流れるネクタリオンの道、“ネクタル・ロード”。巨大な航宙船団として形成される人類の生きる世界は、そのエネルギーを利用してはじめて一個の完結した生命圏・バイオスフィアとして機能していた。
その意味でまさに生命線とも言うべき、ネクタル・ロード。
…しかし、そこには既に先住者がいた。
重力を操り移動の手段とする、宇宙空間にて人類に先んじた生命。ネクタリオン粒子を第1次生産者とした生態を持つ巨大航宙甲殻生物。人類と同位のニッチ(生態的地位)を持つ競争相手、“外敵”。
誰が最初にそう呼んだのかは、その“外敵”との戦いが始まって300年あまりが過ぎる今となっては知るべくもない。群れを成してエネルギーを奪うその生態から、人類は彼らをこう呼び習わした。
群れを成して人々の作物を食い荒らす、有史以前からの人類の天敵。蝗(いなご)の群れになぞらえて
「間違いありません! レギオン(Legion)ですっ!!」
パイロットの乗り込むシェルたちの目前で音もなく、小惑星帯の岩塊が砕け散る。粉々になった断片を粘糸に絡み付かせながら、“外敵”レギオンがその異様を顕した。
幾つもの体節を持って重なり連なる外骨格が、まるで日の光の射し込まぬ地球の深海生物のように真っ白い。硬度の高そうな殻に覆われたその姿は、古代カンブリア紀に地球を席巻したものども…三葉虫、ウミサソリ、オパビニア、アノマロカリスといった節足動物によく似ていた。
ただスケールは桁が違う。個体差はあるがその体長、最小のものでも5メートル、大きなものでは10メートルを超えていた。
次々に砕ける岩塊から蜘蛛の子を散らすように無数のレギオンどもが飛び出し、慣性航行中にあるコロニー船団に向かって進撃を開始した。
騒然となるオキュペテのブリッジに怒号が飛び交う。
「まず訓練生たちを退がらせろっ! それから司令本部に伝達だ!!」
「はいっ!」
「大至急コロニー船アーク31の艦長につないでくれ、急いで航路を変更させる」
「了解!」
この艦の中でカーツのみが、20年前の激戦を戦い生き残った経歴を持つということもあるのだろう。声は大きかったがカーツの命令は適確で、初の実戦に混乱しかねぬ若い兵たちを不思議と目の前の仕事につなぎとめる力を持っていた。
「…推定個体数ごっ… 5万2千!? こんな数がどうして…」
今までセンサーにかからずに…
オキュペテに搭載された航行戦術支援AIが出した分析結果に、クリスが愕然となる。
「アバドン級の半分か…とんでもないな。アステロイド(小惑星)に偽装していやがったんだよ。ネクタリオン変換を止めて仮死状態でな。これだとセンサーに映りにくい。いくつかそんな事例があった記憶があるよ… 20年前だがね」
(20年の平和で相当勘が鈍ったな。俺も…)
カーツの額を冷たいものが流れ落ちた。
20年前、航宙暦406年に人類を襲ったレギオンの群れ…通称“アバドンの群れ”。コロニー船の持つネクタリオン変換機関“エリクシル・プラント”に満たされる高濃度のネクタリオンを求めて10万個体が襲来した事件…というよりは“戦争”である。
人類は銀河を航行する3つの開拓船団“レムリア”“セレファイス”“シャンバラ”の所有する全ての戦力、重装戦艦1200隻、格闘戦闘艇2万隻、攻殻機兵3万機を結集してこれに当たり、多くの犠牲者を出しながらも、からくも撃退せしめた。
「“アエロ”“セラエノ”“グリフィン”“バンダースナッチ”に支援を要請。訓練生を除けばこっちの配備はシェルが20機少々だ。時間稼ぎにもならん」
一通りの指示を出し終えるとカーツはむんずとマイクを引っ掴むと口元へ持ってゆき、現在小惑星帯に展開する攻殻機兵パイロット・シェルライダーたちに告げる。
「聞いたかおまえら! 今から来るのはダミーじゃなくなった。本物の“レギオン”だ! 今から実弾コンテナを射出する。各自、ネクロシス弾倉を装備せよ。後ろにはコロニー船がある。敵は多い。全てとは言わん、だが1体でも多く敵を落とすんだ!!」
後退して行く機兵科訓練生の乗り込むシェルの目の前。開拓機構軍攻殻機兵パイロット“シェルライダー”たちの乗り込むストライク・シェルが、次々に漂ってきたコンテナから弾倉カートリッジを取り出す。グラヴィティ・ライフルの模擬弾倉を実包に交換するやセオリー通りの3機1小隊の編成を成して、迫るレギオンの白影に向かって虚空を“落ちて”行く。
記録映像ではない実物のその威容に、コンラッドは息を呑んだ。
「あれが、レギオン…」
見れば、先発した小隊はもうレギオンとの戦闘に突入している。さっきの模擬戦でほぼ全員がマハ機に撃墜されたとは言っても、それはマハの能力が異常なだけで彼らシェルライダーの能力が低いことの証左ではない。重力を操って虚空を泳ぐレギオンと同等のグラヴィティ・ダイヴ(志向性重力降下機動)で巧みに機体を操縦し、“毒”の弾丸・ネクロシス弾頭を叩き込んで行くのだが…
多勢に無勢と評するのもおかしなくらい、52000対21…彼我戦力差およそ2400:1ではいかに1個体当たりの戦力が高くとも、敵のほとんどは小さく荒く網の目とも呼べない包囲網を容易く数で押し通る。その中には
「っ!」
コンラッドの目が恐怖に見開かれる。悲鳴を上げたいのに…HMDに映ったその光景の凄絶さに…息が詰まってそれすらできない。
音のない世界の惨劇。1機のシェルがその胴体の半ばほどからレギオンの鉤状の顎に喰い千切られた。瞬く間に周囲から別のレギオンどもが群がり、ネクタリオン変換機関エリクシル・エンジンを喰われ生体組織をむさぼられていく…
パイロット脱出の隙など、寸分も見い出せない。
偽りようのない“死”がそこに現存していた。
「く…はっ…」
喉がカラカラに乾き、声が出ない。生きるための行動を起こしたくとも、生まれてはじめて目の当たりにした“死”に身体が… それ以上に心が活動を凍結させる。
その時、コンラッドのHMD、センサーの3D図を鮮烈に疾り抜ける青い光点。青は味方の識別色。コードNoは…
(S−13… マハ・エヴァンヴァッハ!?)
灰色の機影が敵の“群れ”に向かって駆け抜けて行った。
グラヴィティ・ライン(仮想落下軸)を徐々にずらしながら発生するAGP(無志向性重力ポテンシャル)の向きを巧みに操作し“群れ”の外縁から中心に向かってシェルを駆る。機動のさなかにコクーン形態を解除、グラヴィティ・ライフルの弾倉を先ほどコンテナから確保した実弾倉に交換した。
瞬く間に迫る…否、迫っているのは自分の方か… 白い甲殻生物が3体、1機のシェルに群がっている。
(……)
照準固定。寸分の迷いもなくトリガーを引くと、シェルの余剰AGPが弾体を撃ち出し狙い違わず体節、甲殻の隙間を穿って炸薬点火。内に含んだ“毒”を撒き散らす以前に内部組織を崩壊させる。
それを、3回。
『助かった! ありがとう。君の所属は… !?』
機体の左腕を失ったものの、助けられたシェルライダーがその機体の所属コードを見て… 呆然となった。
『なっ! 訓練生なのか!?』
「もう戦えまい。退がっていろ」
少女らしからぬ口調で言い放つと、機体コードS−13のパイロットは助けたシェルのグラヴィティ・ライフルをもぎ取るやいなや両手に1丁ずつ携えて
『ちょ! ちょっと待…』
そのシェルを脚で後方に蹴り飛ばすと、マハはレギオンの“群れ”に向かってグラヴィティ・ラインをロック。目にも留まらぬ急加速で突入して行く。
しかし何機かが突出して敵を撃墜することができても、数の上で圧倒されればどうにもならない。機体とパイロットが生き延びても… その守る対象が同じく生き延びられる道理もない。
「P−14、17 中破。戦闘継続は…困難です」
「エドワード少尉っ! エドワード少尉応答してくださいっ!!」
次々と飛び込んでくる悲報に、カーツの顔が更に険しいものになる。
「……」
(まさに焼け石に水、間に合わんか…)
コロニー船アーク31の近海をえい航していた護衛艦“アエロ”“セラエノ”の増援はすぐにも到達したが、この宙域・船団“レムリア”エリア5を警邏巡回する重装戦艦“グリフィン”“バンダースナッチ”は未だ到着の気配を見せない。開拓機構軍中央司令部もすぐに行動を起こしてはいるだろうが… 皮肉なことだが20年の平和は軍の質を確実に落としていた。そのことはカーツ自身が誰よりもよく知っている。
「約670個体がアーク31に到達っ!」
クリスの報告に、カーツが血を吐くように歯噛みする。
「くそっ!」
ついに“群れ”は、コロニー船に到達した。船の心臓部、エリクシル・プラントに集められたネクタリオンを喰らうためなら如何なる障害も排除し突き進む…レギオンの“群れ”が…
射し込む赤い光に瞼を開けかけて、眩しさにまた瞑る… そんなことを繰り返していると目が明るさに慣れてきた。
(…ん……)
蛍士があちこち痛む体を起こすと、もう夕方なのだろうか、照らし出された校舎の建物が奇妙に赤いように感じられる。
口の端を拭うと、右手の甲に赤い軌跡が残った。手が顔に触れるとやはりあちこちが痛む。
(…また派手にやられたなぁ……)
ボードに張られた紙には、侮蔑と一緒に呼び出しの一文が加えられていた。無視して校舎を出ようとして…出られなかったのだ。多勢に無勢。5〜6人はいたのか、いちいち数えてもいない。
玄関から校舎を出かけたところを、校舎裏に引っ張り込まれた。腹にキツイ一撃を受けてからは憶えていないけれど、あとはお決まりの通りだったのだろう。何の意味もない暴力の標的になるだけ。抵抗したところで連中を喜ばせるだけだから、もうそれはしないと決めていた。
(久しぶりに来てみれば、これだもんな…)
いつからはじまったのか… よく憶えていない。多分、あの事故から戻ってからくらいだろうかと思う。原因の在り処なども、探すのはもう止めてしまった。きっとそんなものはどこにもないのだろうから。無重力恐怖症は、単なるきっかけでしかない。なくても同じだったろう。
いつの世も、人が人であるかぎり悪意は消えない。痛みも…消えない。
そんな風に自分を慰めてみても、何が変わるわけでもないけれど
フラフラと覚束ない足取りで、いつものように校舎玄関を入った隅に備えつけられた給水機に向かう。センサーが生徒を関知して蛇口が水をさらさらと流しはじめた。
手にすくって顔を洗う。
「…つぅ……」
傷にしみるのはわかっているのに、慣れない。汚れと血を落とすとポケットからブルーのハンカチを出し、水に濡らしてから痛む頬に当てた。ほてる傷にそのつめたさが心地よい。
生徒たちはもう全て帰宅したのだろうか。人気のない校舎の中でしばらくそうしていると、緩慢なチャイムとが鳴り響く。その後に続いて
『下校時刻になりました。校内に残っている生徒は速やかに帰宅してください。繰り返します。下校時刻に…』
お決まりの放送が校舎中に流れ出す。
(どうして、学校のアナウンスってこう…無機質な感じなのかな)
聞くたびにそう思うが、そんなことを誰かと話したことはない。自分以外、この時刻まで校内に残る生徒もいないから。
『…帰宅してください。繰り返し…』
繰り返される女性の声のアナウンスに、体の痛みにもゆらがなかった蛍士の目が徐々に険しくなる。
「…どこに、帰れって言うのさ」
1人、そんなことをごちた。
尖角と呼ぶべきなのか、鋭く尖った一角を兜のような頭部に持ったレギオンどもが、あられのように吹きすさびコロニー船アーク31の船壁を音もなく穿つ。
そのまま甲殻下部の節足を駆使して穿たれた亀裂にその身をこじ入れ、更に奥を穿ち貫き、その後を尖角を持たぬレギオンどもが続いて体をねじ入れて行く…
ずぅうん……
「なんだろ?」
足元から…というよりは蛍士の周囲全てが均等に“震えた”ような感覚に、怪訝な目を回りに振り向ける。なんのことはない、校舎の玄関口だ。
なのに…なんだか妙に…ざわざわする。実際に音が聞こえるわけでもないのに…何か…とても…
…ウウゥゥンンンン…………グウウウゥゥゥゥンンン……
低音響かせ、赤い光に照らされる世界が更に震える。今度は窓の強化ガラスがビリビリと鳴った。
(気のせいじゃ…ない?)
胸騒ぎに玄関口を駆け出し、IDカードをスリットに挿して門を抜ける。スクールの施設のあるウェストブロックは第8居住区の中でもやや高台に建てられ、居住区一帯を見渡すことが出来た。
目下では数え切れぬほどの大勢の人々が白と灰色の建造物の狭間を突き進んでいる。そこに秩序だとか隊列だとか呼べるものはない。ただただ皆、人を押しのけ先を争い、複数停車する暗緑色の軍用多輪トラックに乗り込もうとしている。
『……に……がって……』
奇妙にざわめく大気を通って、かすかに耳に飛び込んで来た。
「押さないでください! 充分間に合いますから!」
「急げよ!……が来てるん……」
「…さないでよっ!」
「キャアアアアアアアアッ!」
ざわめきの彼方より来る悲鳴と怒号。
(?)
『…軍の誘導員の指示に従って速やかに最寄の緊急避難ゲートに向かってください! 繰り返します! 現在、開拓機構軍より特A級非常事態宣言が発令されました。一般市民の方々は軍の誘導員の指示に従って速やかに最寄の緊急避難ゲートに向かってください! 繰り返します…』
コロニー船アーク31居住区全域に轟き渡る非常事態宣言。目に映る全てを照らす赤い光は、蛍士にとっては、生まれて2度目に目にする…赤。
「エマージェンシー・ライト(非常照明)の、赤……」
エマージェンシー・ライト(非常照明)が点いている…
この意味するところはコロニー船に暮らす人間ならば、幾度となく行われる避難訓練の際に否応なく憶えさせられる。これは船のネクタリオン変換機関“エリクシル・プラント”に何らかの異常が生じる、あるいは生じることが予期される場合、動力部の暴走を防ぐため1時的にエリクシル・プラントの起動を停止させた処置により、生じる。
エリクシル・プラントに何らかの異常が生じる原因は2つしかない。1つは偶発的、あるいは人為的な事故。そしてもう1つは…
はっとなった蛍士が非常灯に赤く照らし出された“上”を見上げる。
ドオオオンッ!!
猛烈な破裂音を轟かせて、ついに“それ”はその威容をコロニー船内に現した。
「レギオンっ!」
蛍士の視界で尖角を備えた巨大な甲殻生物を筆頭に、次々に“上”に空いた大穴から湧き出してくる。その1箇所だけではない。立て続けに船内空間の下も、右も、左も前も後ろも…次から次へと超合金の外壁を突き破り、幾重にもなった防壁を食い破ってレギオンどもが溢れ出す。
to be continued
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