Evangelion Sword & Grail








Die Luft ist kuhl, und es dunkelt,
Und ruhig fliest der Rhein,

(さびしく暮れゆく ラインの流れ)

Der Gipfel des Berges funkelt, Im Abendsonnnenschein……くゥっ!?」(入日に山々 赤くはゆる……)
 爆発した攻撃衝動は呪歌圏・拡大されたATフィールドを介し、ヒルダの意識を焼き切らんばかりに轟いた。
 かき鳴らされるハープの音を破り、轟音がジオフロントの全てを震わせる。原因は他でもない、ヒルダにだけは誰よりもよくわかる。その攻撃衝動の持ち主が。
(アスカ…)
 弐号機の四眼で見上げれば、激震に崩落を開始した天井都市から瓦礫が落ちてくる。小さなものは急速に、大きなものはより緩慢に落ちるような錯覚をもたらしながら。支えを失い、ジオフロント天井にぶら下がっていたビルが次々と重力に引かれて落ちる。あるビルはジオフロントの地面に突き立ち、あるビルは崩れて粉塵の煙を地下都市の薄闇に巻き上げて。
 その中に
「アスカ!?」
 思わずヒルダは叫ぶ。落下するビル群に紛れ、ジオフロントの地面に向かって落ちつつ組み合う、赤輝と黒武者の姿があった。互いの首に手をかけながら、激しく回転し体を入れ替え互いを振り回す。
 しかし参号機の左腕が、左胸にまで達する深傷で抉りもがれていた。片腕対両腕では土台、勝負にもならない。両翼を勢いよく羽ばたかせた拾弐号機の蹴りが腹部に入ると、参号機は逆さまのまま落下を加速され地面に叩きつけられた。
「トウジクンッ!!」
 土煙を上げて参号機がうつ伏せに倒れ込む。周りに赤紫の組織液がこぼれ、地底湖の湖水に滲んで広がった。歌うことも忘れ、パイロットを救わんと駆け寄るヒルダの弐号機の目前を
「…ッ?」
 衝撃が走って地を裂いた。弐号機に急制動をかけて飛び退き、ヒルダが衝撃の来た方角を見ると
『…こんな、ところに、いたのね、アンタ』
 大翼を収めた赤輝・拾弐号機が双手の鉤剣をゆらゆらと揺らしながら佇んでいた。
「アスカ…」
 かつてと同じままの、惣流アスカの声音。離れていた時間など、ほんの僅かなのに。
 ヒルダはひどく、懐かしいような気がした。





 突如として、拾弐号機がこじ空けた十字の裂け目を中心に、第3新東京市の大地が円形に陥没した。陥没はとどまることなく大きさを広げながら、ジオフロントに向かって深度を増していく。
 その光景は第3新東京市の青白いライトの点灯と相俟って、夜空からはまるで誘蛾灯のように見える。で、あれば、陥没から逃れて散る有翼の白いエヴァたちは、誘い込まれた蛾だろうか。
 白いエヴァたちは再度、今度は裂け目を突破すべく、立ち塞がる六号機と拾参号機に攻撃を仕掛けていく。
(…あるいは、淘汰を待つ精子にも似ているか)
 そんな感慨を抱く暗がりの中。足下の円形スクリーンの光景を見下ろしながら、キール・ローレンツがずっと閉ざしていた口を開いた。
「思ったよりも時間がかかったな、グスタフ君」
「誤差範囲内ですよ。何も問題ありません。いや、それどころか惣流アスカ君は実によくやってくれています。大した攻撃衝動だ」
 キールのすぐ隣で、グスタフは同じ光景を見下ろしていた。口の両端を吊り上げ、こぼれる笑いを噛み殺しながら。
「少々、アグレッシヴを強化し過ぎたきらいはありますがね。でもお蔭で早々にリリスを回収できそうだ。あの“ローレライ”には参りましたが…」
 既に歌は止み、第3新東京市を覆っていたATジャミングは消えていた。
 コンと乾いた音を立ててグスタフのステッキが床面を突くと、足下のスクリーンの映像が拡大される。崩落を開始した第3新東京市地表が映し出され、その先に薄暗いジオフロントが姿を覗かせた。その中央にハープを持って立つ、赤いエヴァ・弐号機とともに。
「我等を阻む“岩の上の乙女”はあそこだ」
 上空に留まる白機が3機、キールの言葉に応じるようにそれぞれに携えた叉槍を掲げた。





 胸の奥から噴き上がる、焼けつくような高熱が激流となって全身を駆け巡る。デラタメな鼓動を打ち鳴らす心臓に呼吸を乱され、アスカは固形物のような息を吐き出した。
「がっ…ハッ…」
 “ジャオエルの双指揮鍵”の力を行使すればいつもこうなる。ドクンドクンとこめかみが脈打ち、頭が芯から破裂しそうに、精神が、意識が…
「ふっ…ぐ……くっくくくくふふふふふ……」
 高まりゆく心地よさに、アスカは声を出して笑う。振るえば振るうほどに力を増す武装と、そのもたらす破壊が限りなく意識を高揚させた。次に振るえばもっと強く、その次に振るえば更に強く。壊せば壊すほどに強大な破壊力が約束される。戦えば戦うほどに、誰よりも強く、優れて在ることができる。
 それは、惣流アスカ・ラングレーが何より求めた場所だから。
 ジオフロントに降り立って目標を、ネルフ本部の特徴的なピラミッド型を全視界スクリーンに探す。使徒であろうがエヴァであろうが全ての障害を排除して、ジオフロント・ターミナルドグマへの道を切り拓くこと。それが拾弐号機とこの“力”を得るための契約だった。
 アスカにとっては是非もない。全てに勝って在るために、躊躇うことなど何一つなかった。六号機と拾参号機を退け、参号機を倒して…
(ホント甘ちゃんよね、アンタ)
 瓦礫を降らせるスクリーンの片隅で、大破した参号機に向かって弐号機が駆け出す。視線だけでその姿を追いつつ、アスカは右の鉤剣を振るった。
 衝撃波となったATフィールドが走り、ジオフロントの地を裂く。友機に辿り着く前に足留めされた弐号機と、拾弐号機が対峙し四眼同士がその視線を交差させた。
『アスカ…どうして……』
 震える声音がアスカの耳に届く。声の主はヒルダ・ヴァルトラウテ。勝手に摘出された卵細胞とどこぞの精子をかけ合せて造られたモノ。擬脳が完成したために、破棄された計画の副産物。
 そんなモノに、アタシは…
「…こんな、ところに、いたのね、アンタ」
 新たな標的を見出してアスカの声が震えた。恐怖でなく、湧き上がる高揚と歓喜によって。汲めども尽きぬ泉のように力が、壊す崩す潰す破る削る抉る斬る折る蹴る殴る打つ撃つ消す滅ぼす…同じ極に至るベクトルの力がアスカの、赤輝・拾弐号機の全身に出口を待って溢れかえる。針一本の衝撃でもって力は容易く決壊し、その進路を阻む全てを消し尽くすだろう。
 アスカはその針、双つの鉤剣をゆっくりと持ち上げた。



「ん………!!」
 瞼を開けたトウジは、気がつくやいなや弾かれるように顔を上げた。
(く…どないなっとん!)
 スクリーンを埋め尽くすWarningを強制解除して機能を可能な限り復旧させる。参号機左眼センサーが死んでいたが、右眼は無事だ。かろうじて確保された右の視界に、対峙する2体の赤い機体、弐号機と拾弐号機の姿があった。
 トウジは瞬時に内臓電源を確認する。背負った柩はとうに消し飛んでいた。残るは稼動時間5分の内蔵電源のみ。戦闘速度で動けば5分にも満たないだろう。右足は膝から下を失い、左腕もない。武器は右腕に一本だけ残ったプログ・ジャマダハルの刃と右掌DGが1回のみ。
 対峙する弐号機と拾弐号機の場所まで、参号機の跳躍で2歩は必要だと目算した。
 もう一度見れば拾弐号機は、もうアンタなんか眼中にないと言わんばかりに、参号機に背を向け弐号機の正面に立っている。
(名乗りを上げて、真正面からやり合うか。隙を突いて、また背から襲うか…)
 機体の性能の差。操縦技術の差。悔しいが尋常にやり合って勝てる相手ではないことくらい、トウジにもわかっていた。
『モノはモノらしくしてなさいっての!』
『だめだアスカッ!』
 そして、迷っている時間などないことも。拾弐号機の双鉤剣は今まさに交差し、その力を解放せんとしている。
「ヒルダはん! 逃げぇっ!!」
 半死半生の黒武者は、その力の最後の一握りを振り絞って跳躍した。





 雲の切れ目から覗く夜空の高みにて、3機の白いエヴァが揃って叉槍・ロンギヌスの槍を片手に投擲体勢に入る。

 暗がりの中で対話をするのは、今や3人の男だけとなっていた。
「もう棄てるのかね? まだ初号機…厄介なアポリオンがいるのだがな」
 問われてグスタフは、足下を見下ろす視線をキールの横に立つ男、ハーヴェイ・ヒューマンに向けた。その眼鏡越しの視線を薄笑いで受け留めながら
「データも採れた、コキュートスの天蓋装甲を破ってもくれた。アレは充分役に立ってくれましたよ。自我崩壊の兆しも出てますしね。アポリオンをどうこうするまで保ちそうにないし、暴走してリリスを傷つけられても困ります。アポリオンはメルカバの皆様に任せますよ。だからもう、あとはあのローレライさえ足留めしてくれれば…」
 再度、グスタフは足下の円形スクリーンに視線を戻して言った。薄笑いのままに。
「用済みです」

 次の瞬間、僅かな間を置き3本の叉槍が順繰りに投げ撃たれた。雷光のように閃きの尾を引いて、裂けた地表のその先を目指す。





 第3新東京市地表の崩落が始まるとすぐ、ヒルダの歌が止んだ。
(ぬぅ… まずい、な……)
 キナンが勘付くやいなや、崩落に巻き込まれぬよう6体の白機たちが翼を広げて舞い上がる。ヒルダの歌、ローレライによるジャミングが止んだ今、ATフィールドを利用したその飛翔を阻むものはない。
 白機を逃すまいとキナンは六号機の翼を広げて飛び立ち、すぐ後を追うように拾参号機がATフィールドの階段を造り出して空へと駆け上がった。
 十字の裂け目は今や、六号機と拾参号機、たったの2機では守り切れぬ規模で拡大しつつある。このままでは…
『キナン・ガシュアス、上だっ!』
「!?」
 カヲルの叫びにキナンは上空を振り仰ぐ。白く尾を引く閃光は、真っ直ぐに裂け目を指して降り下る。それが何を示しているのか瞬時に悟り、閃光に向けて反射的に槍を投げ撃つが
ギィン…
 白機の投げ放ったもう一本の叉槍が、六号機の槍を叉間に挟んで地表に縫い止めた。



 拾参号機自体を降り来る槍に晒すことも考えたが、今や到底間に合わない。カヲルは自身の防護も無視して地表に降りるやいなや、長く尾を引く白い閃光の軌道上に、四重のATフィールドを展開した。
(できるか…)
 展開の角度を微妙に変えて、槍に正対せぬように配置する。ロンギヌスの槍はATフィールドを無効化するが、抵抗がゼロになるわけでもない。軌道を僅かにずらせれば…
 上空から降り来る長い白光が、裂け目の中央で閃く。遮るように展開された四重のATフィールドは、確かに通過しようとする槍に抵抗を与え、落下速度を落としてその軌道を変えた。…しかし
「くっ!」
 カヲルが口惜しげに歯を噛み締める。
 すぐ後に続く2本の槍が間髪空けず、1本目の空けたATフィールドの空隙を縫って降り下っていった。一直線にジオフロント中央を目指して。
「避けるんだヒルダ君っ!」





 双剣を携えた大翼の赤輝、拾弐号機と竪琴を持ついま1機の赤輝、弐号機。四眼を備えた2体の赤輝が、ジオフロントの薄青い照明に浮かび上がる。
「鬱陶しくて仕方なかったわ、アンタの歌…」
 アスカの言葉に同調して拾弐号機が垂らした両腕が上がり、鉤剣がゆったりと持ち上がった。双つの鉤剣“ジャオエルの双指揮鍵”は交差した瞬間に使い手の攻撃衝動・アグレシッヴを増幅し、半ば固体と化したATフィールドの衝撃波に変換して目標を襲う。
 鉤剣の刃と刃が徐々に近づき、触れ合わんとしたまさにその時
「アスカは、こんなコトがしたかっタノ?」
 ヒルダの、ほんの些細とも思える問いかけがアスカを打った。
「なんで、すって?」
 反射的に問い返してしまう。アスカ自身でも気づかぬ動揺が、交差せんとする双つの鉤剣の動きを止めた。
「力を手に入レテ、強くなっテ、一番になっテ、誰よりも何よりも強くなっテ。みんなみんナ、壊しテ、傷つケテ……」
「そうよ! 決まってるじゃない。そうすれば誰もアタシを……」
 言いかけて、はっとアスカは己の口をつぐんだ。アタシは今、何を言おうとしてた?
 しかしそんな、アスカ自身ですら心の奥底に沈めた思いも、ヒルダには見えてしまう。
「…そうダネ。そうすれば誰もアスカに何も言わなイ。言えなイ。アスカが恐いかラ」
 誰よりもその傍で共に戦い、死線をくぐり抜けた故か。ヒルダのことばはアスカの奥深くに入り込む。やわらかく、されど鋭く。アスカの真意を“ほんとうのコト”を見つけ出すために。
「誰も、責めナイ」
「っ!!」
 誰も責めない…その言葉を耳にした瞬間、アスカの瞳が過去を映した。

 憐れみの視線、蔑みの眼差しがいつも、子どものアタシには遥かに遠い“上”から降ってくる。容赦なく降り注ぐ雨のような視線と言葉を浴びながら、ここまできた。
 母殺しの娘。親殺しの子ども。可哀相に。狂気の血統。いつかあの子も母親と同じに…。可哀相な子。かわいそうなこ。かわいそうなおやごろしのこども。いつかおなじになるははごろしのむすめ。
 大人たちは、4歳の子どもには聞こえていないと、理解できないと本気で思っていたのだろうか。

 消毒液の匂いがする、白いベッドのシーツをむしる。見開かれた母の蒼い眼球を這う、細かな赤い血管の筋。夢中で掴んだ右手の、瞬間ひやりとした硬い感触。不意に手にかかった肉を切る抵抗。顔にかかる温かな赤。母の喉から降りかかる血潮。鮮血の夢…夢じゃない、あれは現実。だから、アタシは……

「でもネ、そしたラ誰も…誰もアスカのコト、見なくなっちゃうヨ」
「黙りなさいっ!」
 アスカが悲鳴とも絶叫とも聞こえる咆哮を上げ、弐号機に向かって拾弐号機が双鉤剣を左右同時に振り下ろす。交差されることなく振られた刃は、天井都市を破壊したような強大な力は見せなかったが、3つの重音を次々に響かせた。1つは銀糸の竪琴の落ちる音。残りは…


「くゥ……」
 ヒルダの苦鳴とともに、紫の飛沫が弐号機の左右に噴き上がる。左右の鉤剣はバターナイフのように、弐号機の両腕を肩から切り落とした。
 両肩を抉る苛烈なフィードバックの激痛に喘ぎ、ヒルダはプラグの中で肩を押さえる。歯を強く噛み締め、細かに息を吐きながら苦痛に耐えて…唐突に、苦痛以外の嫌な感覚に襲われた。
(っ!?) 
 拡大されたATフィールドの残滓が残っているためか。ヒルダは冷たく硬い、尖った何かが迫るのを感じ取る。感覚の命ずるままに翠の目を見開いて、弐号機の四眼を破られた天蓋に向けた。
 煌く白い閃光に浮かび上がるのは殺害の意志。憎悪もなく嫌悪もなく、ただ無慈悲無情に全てを“処理”し消費せんとする、限りなく非・人間化され透徹した意志の塊が、弐号機を、引いては軌道直線上にある拾弐号機をも貫かんと迫り来る…しかし
「モノはモノらしくしてなさいっての!」
 気づかぬアスカは今度こそ、と双鉤剣を弐号機に向け、刃を交差させんと身構えた。
「ナ…だめだアスカッ!」


 拾弐号機の正面で、両腕を失った弐号機が耐えきれぬように両膝を地に屈する。
「ヒルダはんっ!」
 一歩目。参号機の左足が地響きを立ててジオフロントの地表を踏み割った。次の跳躍で拾弐号機まで肉迫できる。たとえここで生身の足がもげようと構わへん。トウジは曲げた参号機の片足に、全身全霊ありったけを叩きつけて地を蹴った。
(ぐ…)
 参号機の人工筋肉が悲鳴を上げ、左足の芯に走った削ぐよう痛みを唇を噛み破って凌ぐ。スクリーンで真正面に捉えた拾弐号機の背中が、瞬く間に大きく迫る。加速の中で参号機が右掌を開き弓引くように引き絞り、トウジは度重なるDG使用で痙攣する指を、握り締めたレバーのトリガーにかけ

 まさに正面、目の前に展開した光景に愕然となり息を呑む。
 伸ばそうとした手は…



「CPA(Ceiling Protect Armor:天蓋防護装甲)A−4からC−23区画、第1層から34層まで崩壊…」
「同じくF−15からG−18まで第1層から47層まで崩壊。崩落半径は現在1.2kmから更に拡大中!」
 未だ揺れ続ける第2発令所で飛び交う悲鳴じみた報告は、天井都市・天蓋防護装甲層の崩落が最早止めようがないものであることを示していた。
「地表、第3新東京市が全てジオフロントに崩れ落ちるまで、あとどれくらい?」
 振り向くことなくリツコは問うた。瓦礫の霰とビルの槍を降らせる主モニターの映像を、仇でも前にするように睨み上げながら。
 ジオフロントと第3新東京市地表を捉える観測機器の多くが崩落の衝撃で損壊し、現状の把握を困難にさせていた。
「このままのペースで崩落が進行すれば、直径6.3kmの第3新東京市全域がジオフロントへ崩落するまで、推定48分52秒です」
 心なしか強張った声で、マヤも回答しながらモニターの映像を見上げた。天井都市内部で交戦中だった参号機と拾弐号機の戦闘の余波が今、対使徒迎撃要塞都市・第3新東京市を崩壊させつつある。
(なんて、こと…)
 都市の全てが、もうすぐこのジオフロントに崩れ去って落ちてくる。人類最後の砦。その内実は、狂信者のチャペルであったわけだが…ずっと信じて戦ってきた場所が呆気なく消え去る。今もその渦中にあるのだ。
「ジオフロント内部の映像回復! 第2主モニターに出します!」
 オペレーターが通る声で告げると同時に、生き残りたいと思うこの場の多くの者たち最大の関心である、本部施設周囲のリアルタイム映像が発令所正面に出力された。
 ………っ!?
 スタッフ全員が映像を見て硬直する。一直線に飛来する銀光。コンマに満たぬ刹那の間に、行動できる人間は多くない。
「逃げなさいヒルダ!アスカっ!!」
 リツコはただそれだけを言うことしかできなかった。



 手が届くよりも早く、速く

 威嚇するように大翼を広げた赤輝の絶叫のごとき咆哮と、怨と鳴る双鉤剣の唸りが膨れ上がって頂点に達し、ジオフロントを震わせた。臨界に達したアスカの攻撃衝動が己の“外”に向かって解放される、直前に生じる刹那の間隙に…
 両腕を失った弐号機が、肩から拾弐号機の胸に体当たりした。
「このっ!」
 拾弐号機の機体が僅かに後ろに突き飛ばされる。憎悪に“ジャオエルの指揮鍵”の力によって増幅された攻撃衝動が拍車をかけ、アスカが双鉤剣を交差させたその時
ばしゃ
「…え……?」
 顔に感じる温かな感触。


 トウジの喉は詰まったように声はおろか呼吸も止めた。思考が凍結し目の前の光景の認識を拒絶しようとする。

 頭部と右胸に一本ずつ、上空から飛来した銀の叉槍を真正面から受けて弐号機が仰け反る。貫かれたまま倒れることもできず、そのままの姿勢でジオフロントの地に刺し留められた。百舌のはやにえのように。

 拾弐号機の顔面が、弐号機の頭部から噴き出した組織液を被って紫に染まった。フィードバックによってアスカ自身の顔にも生温かい感触が覆い被さる。エヴァは嗅覚を持たないのに、アスカは塩を含んだ鉄錆びの匂いを嗅ぎ取った。頬にかかる生温い液体の感触が引金となって、呼び起こされる過去の幻。無意識下の心的複合・コンプレクスが蠢き出す。





 ライトを背にしたママの顔はまっくろ。なのに目だけがひかってみえる。喉を圧して食い込む指。口を閉じても開いても、いきができないいきができない。いっしょに死にましょうねひとりはさびしいさびしいの…… いやっ!
 一瞬だけママの首で煌いた銀色の光。公園の鉄棒に似た匂い。生温い赤が頬にかかって今みたいにいやなかんじ。大きく目を剥いて、笑ったままアタシに覆い被さってきたママ。いやな笑顔。

 こわくてこわくてベッドから下りて、白い部屋の隅にうずくまって眠る。白いベッドのシーツは、赤に染まって覆い被さってきたママを思い出させたから。
 夜になるとパパが帰って来た。ママと違う、いい匂いのする女のひとを連れて。明かりの射し込むドアの隙間。部屋の隅からちょっとだけ顔をのぞかせてみる。
「適性…ではやはり?」
「ああ。これであの失敗も挽回できる」
「でもいいんですか? あの子はあなたの娘ですよ」
「だがあの女の娘さ。恐い子だ……母親を殺しておいて罪の意識はおろか涙も見せない」

(アタシが…)
 母親を殺し罪の意識…母親を殺し罪の意識……

 5歳にして、ネルフ・ドイツ支部での適格者群“カッツバルゲル”の一員となった。
 訓練。実験。訓練。実験。訓練。実験。訓練。実験。訓練。実験…… 訓練後に、更衣室を出際に聞く言葉
「あいつ、アスカ・ラングレーって母ちゃん殺したらしいぜ」
 睨みつければ皆黙った。しかし胸に残響するエコーは、いつまで経っても胸を苛み続けた。いつまで経っても痛かった。だから前だけを向いて駆けて来た。誰よりも強く優れて在るのなら、誰もアタシを…

 母親を殺し罪の意識…母親を殺し罪の意識……
「アタシは…」
 罪人。咎人。母殺しの子ども。
 ならば、罪を犯したならば、罰せられねばならない。だってママは言っていたもの「悪いことをしたら、罪を犯したら神さまが罰をお与えになるのよ」って。
 でも罰を与えてくれるはずの神さまの仲間をたくさん殺してきたから、罰を与えてくれるものがいない。罰を与えてくれないのが罰。じゃあ…





 ほんの小さな心のゆれをも“ジャオエルの指揮鍵”は加速する。
 増幅された攻撃衝動が“内”を向いた。


(ア…スカ……)
 血を吐く意識が翠の瞳に、小さな、けれど何よりも強い光を灯らせて。
 その光は、無償の愛は、母が子に持つそれに似ていたかもしれない。


 アグレッシヴATフィールド暴走反転。対象を己の内に見出した衝撃波が拾弐号機の機体を爆散させた。

「ヒルダはんっ!」
 二歩目の跳躍が地表を踏み割り、足跡に地底湖の湖水が流れ込んで飛沫を上げる。参号機が爆煙の巻き上がる渦中に飛び込んだ。
 薄くなりゆく紫を帯びた煙の中に、串刺しにされた弐号機の姿を探す。右半分になった参号機の視界を、頭部を振り回して補って。
(どこや……っ!?)
 そしてトウジは見た。
 爆発に四散したはずの赤輝・拾弐号機の機体。しかしその頭部から脊椎、エントリープラグまでが淡い翠光の壁に包まれて地に横たわっているのを。
 数瞬の後、淡い翠の光の壁は溶け入るように霧散した。
「ぬ……」
 拾弐号機のプラグを認めた瞬間、トウジは反射的にDGのトリガーに未だ痙攣する指をかける。惣流アスカ・ラングレー。かつての仲間。いけ好かん女。かの少女を傷つける、同い年の少女。メルカバの赤輝・拾弐号機を駆って飛来した襲撃者。今の敵。おとんを殺したヤツらの手先…… 腹の底から沸騰した血液が全身を廻り、その流れに押し出されるように参号機の右掌を地に落ちたプラグに突きつけた。
 今なら、殺せる。消し去ってしまえる。参号機右掌に組み込まれた高速振動機構は、剥き出しのエントリープラグなど塵にしてしまえる。ほんの少し、ほんの少しだけこの指に力をこめれば……
 しかし、トウジの中にそれをさせないもうひとつの力が在った。やわらかく、かなしくちっぽけな何かが訴える。やめテ… と。

 拾弐号機に体当たりして、弐号機は叉槍を全て己が身に受けた。受けてなお、爆散した機体のエントリープラグをも護りながら。

 惣流アスカは仇だ。仇の手先だが… トウジは何かを振り切るように両目を強く閉じて、開いた。
(…せやけど、ヒルダはんが護った命でも、あるんや……)
 叩きつけるようにDGトリガーから震える指を引き離す。一度大きく息を吐いてから再度、弐号機の姿を探して
(何やっ!?)
 激しく空を切る音に、トウジはすぐさま上を見上げた。天井都市を抜けた上空はるかから、薄闇を背に有翼の白機たちが旋回しつつ舞い降りてくる。
 次の瞬間、本部施設前面の陥没領域を囲んで光の壁が突き立った。見覚えがある。これは
「初号機沈めた時と同じヤツや…」
 トウジは半身を裂かれた参号機を顧みる。敵が来た。しかし、今できることは… 迷っている暇などなかった。かき消えた煙の向こうには、刺し貫かれた弐号機の姿が見える。
(ワイは…)
 このままではあの暗闇の淵に弐号機も拾弐号機も沈められてしまう。トウジは離した指を再度、DGのトリガーにかけた。屈みこむようにして参号機の右掌をジオフロント地表に叩きつけ、同時にDG発動。高速振動が地表を粉砕し、粉塵に変えて巻き上げた。
 参号機を覆い隠すように。





 キール・ローレンツとユーリヒ・グスタフ、ハーヴェイ・ヒューマンの3人が立つ暗闇の中に、6人の男たちが次々と浮かび上がった。
 総計9人の男たち全てが、足元の円形スクリーンを見下ろす。崩落しジオフロントへの空隙を拡大する第3新東京市の地表。あとは降りて手に入れればよい。そして… キールを除いた全員が一様に、堪えきれない愉悦をその顔に浮かべて、一斉に
 グスタフを見た。
「…?」
 グスタフが己に集中した16の視線を見返す。その有り様にバイザーを向けて、キールが引き結んだ重い口を開いた。こころもち顎を上げ、存在しない視線でグスタフを見下ろしながら。
「ユーリヒ・グスタフ。“槍”の量産化、S2機関の解析、そして拾弐号機の建造と運用… 結社への君の貢献には、言に尽くせぬ感謝を抱いている」
「………」
 グスタフはキールの真意を読み取らんとするが、その目の表情はバイザーに覆われて見えず、語る口調は淡として揺るがず。
「…しかし、人が神の座に成り代わることは赦されない」
「仰る意味が…」
 返した言葉は変わらぬ平静を保ってはいたが、己のシナリオの露見を感知し少しだけ、グスタフはその口調を速めていた。
(ここまで来て…)
 かすかにその表情を忌わしげに歪めて、グスタフはこの場の離脱に思考を回らせる。拾四号機単機でどこまでやれるか。真っ先に突入してリリスを盾に…
 しかしそんな思考を余所に、キールはグスタフの為した罪状を述べていった。
「君が脳内にアンゲロス幼生を移植していることはわかっている。中心教義(セントラル・ドグマ)への個人意志の干渉は、新たな世界に再び小賢しき“知”の歪みをもたらすだろう。…我々の求める場所に人格などは不要なのだよ」
 蒼い両目に憎悪を滾らせ、グスタフの姿が暗闇の中に消えゆこうとしたその時
「……ッ!!」
 拘束されたメルカバチルドレンの脳を介し、拾四号機にシンクロしていたグスタフの脳が電磁波照射によって焼き潰される。瀕死の獣のような精神の絶叫が上がるが、電子上の幻像でしかないこの場では単なるノイズとして処理されるだけ。
「…君の替わりに、同志がその座に着く」
 キールの言葉に、ポッドプラグに収められ拾四号機に搭載された“もうひとつ”の脳、結社の神智者の脳がグスタフの替わりにチルドレンの脳を介しシンクロを開始する。
 ローレライが消え、第3新東京市地表は崩れ去った。今や罪の源・リリスに至る道を阻むものは、もうない。
 ツ…とキールがその口の端を吊り上げる。その目がバイザーに隠されて見えぬため、この男の表情をうかがわせるものは口だけだ。
「さあゆこう。約束の刻、新たな契約の刻だ」
 ずっと表情を見せなかったキールが、ここではじめて喜悦を見せた。
「副脳へ加速剤、加シンクロ薬を投与。速やかにターミナルドグマを制圧し、リリスを奪取する」




 薄赤いLCLの中で、拘束具に戒められた14歳の子どもの頚部に管針が2本、続けて射ち込まれる。子どもは一度大きくその身を痙攣させると、すぐに沈黙した。
 見開いた眼の表面に走る赤い血管の筋を、膨張させて。



 地上付近を飛翔する白機が6機、六号機と拾参号機の攻撃を逃れるや一斉に舞い上がって急降下。崩れゆく天蓋へと突入する。
(どういう、こと、だ?)
 六号機で白機を追いながらキナンが呟く。鈍重とさえ言えた先までの白機たちの動きが、急に速く、俊敏になった。
 しかし思考を回らせる間にも白機たちは次々に降下する。キナンは白機の追撃を止めて六号機で低空を飛び、そのまま叩き落された叉槍を回収した。連中の狙いは、わかっている。
(器…リリス、か)
 世界は変えねばならない。変わらねばならない。彼ら義人結社の者の言うとおり。……しかしそれは、赦しのために全てを否定するような、こんなやり方では、ない。
 速度を上げて崩落する天蓋に降り立ち、六号機は叉槍を構えた。


 ATフィールドを4枚の刃に変え、拾参号機が急降下する白機たちに向けて撃ち放つ。
(何…?)
 白い光の軌跡を残して飛来する刃を、白機はATフィールドを展開して中和・消滅させた。その動きが、先ほどまでとは桁違いに速くなっている。
(シンクロ率の強制上昇…いや、加速剤の投与か…?)
 カヲルに推測できる可能性はいくつもあったが、今は考察している暇などない。瞬く間に自由落下の速度を超えて、白機が大きさを増す地表の空隙へと落ちる。六号機と2機体で防ぎ切れるものではないと承知しながらも、拾参号機は地を蹴った。



「弐号機と拾弐号機大破!」
「拾参号機、六号機が戦闘中ですが…」
 オペレーターの報告を待つまでもなく、主モニターを見れば誰の目にも瞭然だ。無惨に貫かれた弐号機と、その前で粉砕された拾弐号機の残骸。煙幕のつもりか、巻き上げた粉塵の中で参号機が弐号機の頚部を片手で器用に探る。探り当てて装甲を引き千切ると、エントリープラグを引き抜いて顎部拘束具を解除。そっと運んで咥えてから、地に落ちた拾弐号機のプラグを右手で拾った。
「参号機フォースチルドレンから救助の要請が…っ!?」
「わかっています。今……くっ!」
 発令所に溢れた白光がリツコとスタッフたちの目を眩ませる。すぐに光量調節機構が働き、本部施設前面にある四角推状の陥没領域を顕わにした。
 今までのものと桁違いの光を放つ壁、ATフィールドが陥没領域を囲んで突き立つ。以前にも一度あったこの現象の正体は、かつて初号機と使徒を沈めた
「デュアルシンクロパルス検出」
「多重積層ATフィールド発生、虚数回路を……これは!」
 ヒルダのローレライなき今、ATフィールドは存分に活用できる。
「ディラック・ヴォーテクスです!」


 六号機が槍を振るい、投げ撃たれる赤杭を弾く。拾参号機が受けた白機の叉槍の一撃を2枚のATフィールドで挟み止める間に、その真横を4体の白機がすり抜けジオフロントへ降下して行った。
(時間稼ぎか…くっ!vghh…)
 歯噛みしながら対する白機の腹を蹴り上げるが、飛行能力を持つエヴァにはどうしても打撃が浅くなる。カヲルは珍しく忌々しげにその秀麗な顔を歪めながら、この時代には忘れられた国の語で呪いの言葉を吐いた。


 周回しつつ舞い降りる4白機の軌道に合わせて、囲む光の壁が明滅しその内部に黒い染みが浮き上がる。徐々に徐々に黒い染みは大きさを増し、ズズ…とその這い広がる行く手にある全てをゆっくりと呑み込みはじめた。





 ケージのコンテナの影に身を潜め、一瞬だけ顔を出すとミサトは敵の射線を伺ってから駆け出した。目指す向かいのコンテナに身を隠しながら再度、アサルトライフルの引金を引く。チラと振り向いて救援部隊による負傷者の移送状況を確認。共に来たスタッフに警護するよう指示を出してからライフルを下ろして、胸ポケットから鳴りっぱなしの携帯通信端末を取り出し耳に当てた。
「状況は? さっきの地震は一体……え? 天井都市が崩落。敵エヴァがディラック・ヴォーテクスを…って…」
 状況は最悪。弐号機と参号機、敵として襲来した拾弐号機が大破。六号機と拾参号機は阻止しきれず、メルカバ・エヴァは案の上ディラックの海を使ってターミナル・ドグマへと突破しようとしている。頼みの綱は初号機だが、それもATフィールドに阻まれ音信不通ではどうにもならない。生きているのかどうかさえ…
「リツコ、赤木博士は?」
『赤木博士は伊吹二尉を残して、6名の部下とパイロットの救助に向かいました。葛城一尉、我々はこれからどうすれば…』
 端末越しの青葉シゲルの震える声が、死の脅威に迫られた人の有り様を如実に伝えた。考えろ、考えろ葛城ミサト。作戦部長ならば考えろ。己に向かって叱咤すると、背後から幾多の呻きと嘆きが聞こえた。負傷したネルフスタッフたちが応急手当を受けながら口にする。ある者はモルヒネを打たれ、ある者は包帯で患部を圧迫、止血されて

 痛い。苦しい。喉が乾く。血が、血が…。死にたくない。死にたくない。死にたくない… 会いたい。もう一度、ひとめでいいから……

「……生存者全員を第2発令所へ収容。その後、本部施設から切り離します。すぐに準備にかかって」
『!?』
 シゲルが息を呑むのが、端末越しでもわかった。それもそうだろう。耐圧耐爆球としての発令所の切り離しは、事実上のジオフロントそのものの放棄を意味する。
 だが、今ひとりでも多くの人間を生き延びさせるには他に方法を思いつかない。ジオフロント外への退避も考えるが、崩落する第3新東京市の下にジオフロント全体が埋没するまで、マギの算出で推定約40分、到底間に合うものではない。
『ですが…』
「大丈夫、あなたは訓練通り作業を進めてくれれば…」
 パシュッと乾いた空気の音に続いて、ミサトの目の前を熱が通り過ぎる。後を追うように前髪が揺れて、数本がはらりと切れ落ちた。
 すぐに身を屈めて後退しながら、ミサトは端末に向かって声を張り上げる。
「アタシたちも至急そちらに向かいます! とにかく急いで!」
 ライフルの弾数を確認すると、腰ポケットに入れたカートリッジの感触を確かめてから構え、コンテナの影から駆け出した。





 六号機と拾参号機と交戦中の2機を放置して、4機の白機がジオフロントに降りてゆく。広がる黒円、ディラックの海が地表そのものを暗闇の淵に溶かし呑み干し、はるかな地の底へと続く垂直回廊を顕わにした。
 白機たちは満足げに頭部を頷かせながら、ほんの少し離れた位置で地煙に覆われた参号機になど目もくれず、白羽を散らして開いた回廊を飛び降りてゆく。



(…眼中ない、そーゆーことかい)
 遠く目を細めながらトウジが渾身の力をこめて、弐号機から引出し地に置いたプラグのハッチ開閉レバーを回そうとする。極めて固く数ミリずつしか回らなかったレバーだが、ある一点を超えると勝手に回転し、落ちかかるようにハッチが開いた。
「ヒルダはんっ!」
 振りかかるLCLを浴びながら、プラグの中に駆け込んで凍りつく。力なくシートに横たわるヒルダの口と鼻から、赤黒く血が流れていた。
 まだそうと決まったわけやない…嫌な想像を頭を振って打ち消す。自身の呼吸と脈動に惑わされぬよう慎重に息を整えてから、トウジはヒルダの首筋に手を当てた。
(ほんま、頼むわ…)
 神さんの舎弟をボコにしまくったワイが、一体誰に頼むゆうんや… 思わずにいられないが、それでも、祈るような気持ちを抱いて
 それは、かすか

 とく…とく……

「は……」
 指先に、錯覚でない小さな鼓動の感触。トウジは何も言えずにシートの脇に座りこんだ。しばらく立てそうにない。参号機はもう限界で、ヒルダとて瀕死の状態だ。敵は易々とトウジたちの防衛線を突破して、メインシャフトに入り込んでしまった。
 このままでは、遠からず自分たちは消えてしまうのだろう。リツコの話は難しかったが、それくらいはわかった。なのにトウジは自分が安堵していることに気づく。
 彼女が死んでいない、ただそれだけで。他に何も考えていなかった。父のことさえも。
(勝手なもんやな、ワイも…)
 心の中で呟いて、開いたハッチの向こうの薄闇を見上げた。あとは… こんな状況をどうこうできんのはセンセだけやな。生きとるのか死んどるのかわからへんが…
「シンジ…」
 トウジは友の名を呼んだ。
 その声にさっきの祈るような気持ちが混じるのが、何故かわかった。





 回廊を抜けるために四号機を操って造った地震。それをはるかに上回る激震を、メイヴは伏せてやり過ごした。
(何が…?)
 エヴァの攻撃にしては規模が大き過ぎる。メルカバ・エヴァがジオフロントにN2爆雷でも落としたか… 思いを廻らせる間もなく、けたたましい警報サイレンが施設中に鳴り響く。何が来たにせよ、今は駆けるだけだと微震の残る床面に立ち上がった。
 四号機のいる第1発令所跡まであと僅か。直線にして200mにも満たない。メイヴが左手の拳銃を握り直して地を蹴ったその時、“上”からひどく鈍い重音が断続的に響いてきた。
 その直後に、身体を内側から引っくり返すような嫌な、しかし馴染みのある感覚に襲われる。積み重ねたATフィールドがめくれるように反転し、こちらの空間に干渉してくる力を支える。一度となくメイヴ自身が使ったそれは
「ディラック・ヴォーテクスか。メルカバめ……」
 虚数空間を使って隔壁を消し、ここへ侵攻するつもりなのだろう。
 気にくわない…何もかもが気にくわない。委員会、義人結社のやり口も。この連鎖を断ち切ると、人にやさしくできるようになりたいと、言ったクセに消えてしまいそうなアイツも。
「言ったからには応えてみせろ!」
 怒鳴り声に応じ、四号機が発令所入口に手を突っ込んで押し広げた。マユミによって駆逐され、第1発令所跡に襲撃者はもういない。走る勢いを殺さぬままに、メイヴはエヴァの頚部に駆け上がってプラグを伸出させ、ハッチに手をかけ中に飛び込んだ。
 シートに腰かけ、身体を固定し顔を上げる。四号機の手に武器はない。ないが…
 メイヴの心には今、二振りの剣が在る。左に大剣ダイツウレン。右に小剣ショウツウレン。女王の意志に呼応して、S2機関が稼動し四号機の両腕に青い火一閃、無から有を造り出す。青い刃を持つ二振りの剣を。
…Reply to me (こたえて、みせろ)」
 please…と続いた声は、LCLを肺に入れる過程で途切れた。


 翼を畳んだ半仮面の白騎、四号機が両手の青い剣を振るって第1発令所の壁を斬り裂き走り去る。裂かれた壁はバラバラと瓦礫となって砕け落ち、発令所跡に駆け込もうとしたレンヤとベアトリスの足を止めた。
「行っちまったか…」
 徐々に瓦礫に埋まりつつある第1発令所だったが、入口からの視界でも、閃いた青の残滓と白翼の後姿だけはかろうじて見届けることができた。
「ええ… 恋する乙女は強いのよ」
 メイヴは乙女というよりは女傑、さもなくば女王様の方が合っているような気がしたが、レンヤは思うだけにして黙っていた。
 微笑みながら発令所入口に背を向け駆け出したベアトリスに倣い、レンヤも駆け出す。女ってのはどうしてこう、何でもかんでも色恋に結び付けたるんだか…と差別的な考えがよぎるものの、あるいはそうかも、などとも納得する。14歳と言えば思春期。そうでない方がおかしいくらいだ。
(シンジ君。えらいのに好かれるな、君は)
 少年のその後を思って、レンヤは少しだけ同情的な気分になった。子どもたちが、自分自身が、“その後”を無事迎えられるかどうかはわからない。しかしそんな想像は、こんな状況にあっても心楽しませるものだったから。





 碇くん…呼んだその名はずっと呼び続けた名。ふたり抱き合ってから互いの呼び名を変えてみても、咄嗟に出るのはずっと呼びつづけてきたその名前。会いたくなくて、遠ざけて、でもとてもとても会いたいひとがそこにいた。
「碇くん」
 レイは蒼翼を使って初号機の目線と同じ高さに浮き上がる。もう一度繰り返してその名を呼ぶと、頷くように初号機の双眼が明滅した。鎧われた向こうにあのひとがいる。我知らず、レイはやわらぐ瞳を彼のひとに向けて
 轟と“上”から響き落ちてくる鈍い重音に、真紅の眼差しを鋭く引き締めた。ターミナルドグマのドーム天蓋を見上げれば、中央にジワ…と黒が染み出しその円形を拡大する。最初は小さな点にすぎなかったものが、見る間に巨大な黒円になり…
 危険、と心の何処かで警報が鳴った。当初の目的を果たさんと、レイはリリスに向けて振り向きざまに蒼翼の剣を薙ぎ振るう。蒼い菱形ATフィールドの刃が、リリスの胎を斜めに斬り裂かんと閃くが
ギイイィィンッ!
「っ!?」
 天蓋の黒円からカーテンのようにゆらめき降り立った白光の壁が、蒼い刃を阻み弾く。光の粉が飛び散り白光が強い光を放つ向こう。黒円の表面から垂れ落ちるように翼持つ白いエヴァが4機、羽ばたき現れ出でた。
 降下の勢いをそのままに、4機の四眼が一斉にレイと初号機を射る。敵を見出して眼裂が赤い光を放ち、脚部肩部の武装スリットから赤杭を引出し抜き撃った。
 白光の壁を貫き通る12本のヴラドの赤杭。レイは反射的に蒼翼を拡大し前面に展開するが、赤杭はATフィールドを無効化できる。蒼翼を突き破り、赤杭がレイの身体を打ち砕かんと迫ったその時

 紫に鎧われた脚が赤い湖面を蹴って飛沫を上げた。巨大な右掌がひとつ、レイをそっと掴んで引き寄せると、同時に振るわれた十一の腕がその右手を覆い隠し、赤杭の全てを受け止めた。
しかしその隙に白機は各々手にした叉槍で、リリスの両肩と両脚の付け根を貫きとおす。そのまま白機たちは示し合わせたように互いに頷き合うと、リリスの巨体を差し上げるように掲げながら天蓋の黒円に向かって飛び上がった。
 暗闇の淵を通り抜けて上昇する。新たな契約の儀式のために。





 十一の腕に赤杭を突き刺されたまま、初号機は静止していた。
「碇くん……?」
 レイがATフィールドを初号機のそれに干渉させて呼びかけても、応えがない。胸騒ぎに身じろぎすると、初号機の右掌は呆気なく解けた。
 飛び上がって初号機の首元に立つと、レイは緊急イジェクションのレバーを探り当てて引く。何の抵抗もなくエントリープラグが伸出し、赤く血塗れたハッチを見せた。
 ドキンとレイの心臓が跳ね上がる。速まる鼓動に衝かれるままに血の跡を付けた開閉レバーを回し、開くと同時にプラグ内に飛び込んだ。視界を覆う、通常よりはるかに濃厚な赤に染まったLCL。鼻をつく匂いは濃密な血の匂い…
 碇シンジが力なくシートに横たわっていた。左手で脇腹を押さえ込み、血の気を失った蒼白な顔で右眼を空にさまよわせながら。
「碇くんっ!」
 身も世もない叫びとはこのことだろう。シンジの右手を握り締め、身を震わせながら魂を取り落としたようにレイはその名を呼んだ。碇くん碇くん碇くん碇くんいかりくんいかりくんいかりくんいかりくん……
 触れ合わせた頬のなんと冷たいことか。抱き締めてくれた手の、今はなんと力ないことか。押さえ込まれた腹部から糸のように細い赤が幾筋も、LCLに昇って消える。こんな身体でどうして来たのか。こんな身体になってまで、どうして、どうして……
 そんなの、きまってるじゃない。いかりくんはそういうひと。心の何処かで幼い声が聞こえた。
 締め上げられたこころが雫となって、紅い瞳からこぼれ落ちる。いくつもいくつもあふれだしてシンジの顔に降り注ぐ。
 やがて、雨に打たれた種子のように、シンジの右眼が焦点を結んだ。
「レ………」
 短く浅い途切れ途切れの呼吸の中からかろじて、それだけがことばとなって形を成す。生きている、その嬉しさと悲しさの入り混じる泣き笑いを浮かべながら、レイは心の壁をシンジのそれと触れ合わせた。
(声を出さないで。思うだけでいい…)
 声に出して喋れば、それだけ体力を消耗してしまう。
(無事だったんだね。よかった…)
 レイに思考を届けると、ほぅ…と痛みの塊を吐き出す息をついて、シンジの蒼白の頬がかすかにゆるんだ。
(ええ、無事。あなたのおかげで)
 こころを通わせながら、レイは頬をすり寄せる。そうすることで、冷たい頬に少しでも体温を分け与えられるような気がするから。
 とくん、とくん、とくんと心落ち着ける鼓動が3つ重なり合う。ひとしきりそうしたあとで、シンジは右眼を鋭く細めた。安堵に周囲の状況が見えてくる。朦朧とした意識の中でレイの危機を感じ取り、初号機を盾にしたはず。即ち敵…そう、敵がいたはずだ。アザゼルとシェミハザだけではない。それよりもはるかに強大な“何か”。メイヴに向かって阻み止めてみせると宣し、リツコが語った光輝に至る浄罪の儀式。レイを、メイヴを、シンジ自身を、皆を巻き込んで離さない憎悪と苦痛の流れが其処に…
 頭上から、青の劫火の咆哮が聴こえた。
 呼ばれるように、しぃん…とシンジの心が硬く尖る。戦意。そう気づいた瞬間、レイはシンジの胸に顔を埋めて爪を立てた。
(いや……)
(レイ…)
 困惑にゆれるシンジの隻眼を見上げながら、レイはこころでことばを織り綴る。
(戦うには、あなたは傷つき疲れ過ぎてる。初号機、アポリオンと魔剣があっても、それを使うあなたの身体が……)
 シンジは右手を解くと、なだめるようにレイの背を撫でながら、こころの内で語りかけた。
(でも、このままでも皆全て“終わらされ”ちゃうんだろ?)
(…それでも、わたしは……)
 あなたが苦しむのはいや。たとえ世界が滅んでも… 心と心の触れ合う地平で、レイは嘘をつきとおせなかった。恐い、こわい、あなたが消えることが何よりもこわい。生まれてはじめて感じる明確な恐怖に、震える身体を止められない。
(僕だって、君が苦しむのは、消えてしまうのはこわくて、いやだ)
 同じだね、とシンジは淡く微笑を浮かべながら、恐怖に震える手を上げてみせた。
(だから、ここまで来た。来ることができたんだ。それに…)
 ぎゅっとレイを抱く手に力をこめる。蒼い髪に顔を埋めて、シンジは耳元に囁いた。
「その子が生まれ出る世界がないなんて、かなしすぎるから」


 赤い組織液を撒き散らしながら突き刺さった赤杭を振るい落とし、黒い焔を上げて十二の腕が剣の翼に変わった。重なる硬音を響かせひとたび試すように羽ばたくと、初号機はヘヴンズドアーを斬り拓いてメインシャフトを翔け昇る。



 碇ユイの顔を持つ巨大な女が身に4本の槍を受け、咎人のように引き立てられた。夜空に待つ神智者を目指し、白機たちが垂直回廊・メインシャフトを翔け抜けんとして…
 側壁が突如として砕け散る。飛翔の軌道に交差して閃いた青に、リリスの脚を穿った白機の下腿が切断された。
(外したか…)
 メイヴが悔しげに顔を歪める。胸部中央・エントリープラグを狙った一撃だったが、目測とタイミングを見誤った。
 しかし下腿を失っても、白機は未だ槍でリリスを貫いたまま飛翔を続ける。他の3機も同様に、奇襲をかけた四号機など無視してただひたすらに上空を目指して飛んだ。
「逃がすかっ」
 四号機の翼を展開し、メイヴは追撃に入った。




 激戦に植林されたブナを薙ぎ倒され、裸となったジオフロントの丘にライトの光線が幾本も交差する。リツコは担架に横たえられたヒルダの口に酸素吸入マスクを当ててから、同様に隣に横たわるアスカを診た。
「リツコはん、どないなもんやろか」
 遠慮がちなトウジの視線を感じながら、リツコは作業を続ける。
「…聴診器だけじゃ、大したことは言えないわ。ヒルダは生きている、としか言えないし、アスカも外傷はないけど、ね」
 とにかく、早急に施設内に運び込んで島岡二尉に任せるのがいい。特にヒルダは衰弱が激しく心音も微弱だ。そう判断してリツコは、募ったスタッフたちに担架を非常通路から施設内に運び込むよう指示を出した。ついで通信端末を取り出し、医師であるベアトリス島岡二尉の所在確認と、緊急処置の準備を本部へ命じる。
 振り向けば、ヒルダの担架を運ぼうとするスタッフに、ワイが…と申し出てトウジが断られていた。煤けた横顔に、やがて至るのであろう大人の男がちらりと顔を覗かせているのがわかる。
 リツコは前を、特徴的な黒いピラミッド型をしたネルフ本部施設を臨んだ。丘からは、夜のジオフロントがよく見渡せる。丘は崩落領域から離れているため、まだ人が立っていられたが、それも時間の問題で、間もなくここも瓦礫と土砂に埋もれることになるだろう。
(こんな終わり方に、なるとはね…)
 自身の描いたシナリオとは、大きくかけ離れた現状にリツコは薄く自嘲の笑みを浮かべた。所詮人ひとりの思いなど、渦巻く意志と意思と遺志の潮流の前にはちっぽけなものなのかもしれない。
 しかし…
 本部施設の方角から強風が丘に吹きつけた。叩きつけるように舞い来る粉塵を、リツコは視界を腕で覆って防ぎ、その隙間から垣間見る。

 碇ユイの姿をしたリリスを、白機が引きずり翼を羽ばたかせ上空を目指す。僅かに間を置いていま1機の白騎、四号機が青い双剣を携え追いすがり、姿が見えなくなるとその後を遅れて、十二剣翼の異形に変貌した初号機が飛昇する。

 しかし、そのちっぽけなものこそが、今の全てを支配してもいた。
「あれ、シンジなんか?」
 強そうやがけったいなカッコになってもーて…。いつのまにか横に立っていたトウジが、同じ光景を目にして呆けたように言った。
「…そうらしいわね、それに四号機も。フィフスも目を覚ましたのね」
 しかし思うのも束の間、崩落が丘の上にまで及び、リツコとトウジの前に瓦礫が降ってくる。見上げれば頭上にぶら下がったビルが、ぐらぐらと覚束ない揺れを見せていた。
「行きましょう。ここも危険よ」
 トウジを先に促して、リツコは非常通路に向かって走る。シンジの無事にほっと安堵の息をつきながら、もう一度夜空を仰ぎ見た。あとは…決めるのはあの子たちだ。たとえどんな結果が待ち受けようとも。
 リツコがそんな思いを胸に、視線を前に戻すと
「!?」
 トウジがリツコと逆走していった。
「鈴原君っ! あなた…」
 立ち止まって振り返り、リツコは怒鳴る。こんな時に一体何処へ?
「なんや、発令所も安全やないんやろ? こんなんじゃのう!」
 立ち止まることなく顔だけリツコの方へ向けて、トウジはそのまま駆け続けた。丘の上に膝を着く、壊れかけの黒機武者に向かって。
「参号機はボロボロやけど、電源つなげばATふぃーるどくらいはいけそうや」
 第3新東京市地表は今も、ジオフロントに向かって休むことなく崩れ続けている。そして地表のはるか上空にはメルカバ・エヴァがいるのだ。
(片腕片足片目、電池もなくしてもーた参号機や。正面切ってやり合うんはできへん。できへんが…)
「盾が要るやろ? ケーブルの準備頼んだで!」
 こともなげに言って、トウジは笑った。



 足下の円形スクリーンのもと、白機たちがリリスを槍で掲げながら昇ってくる。
 その映像を目の当たりにしたキール・ローレンツは、吊り上げた口の端をなお一層高く深い笑みに形作りながら
「至れり」
 一言述べて煙のように暗がりから姿を消した。後を追うように残りの8人も次々と姿をかき消す。
 データで構築された仮想空間への電力供給が断たれ、一瞬のノイズの後に、映像と音のみで構成された全てが崩れて消え去った。誰も観測し得ぬ場所で。
 人類補完委員会、義人結社の“この世界の何処にでも在って何処にもない”会議の場の終幕。そして、新たな世界へ向けての幕が上げられる。







至れり



 3機の白機が捕縛した使徒・メファシエルを前面に押し出すと、背に備え付けた叉槍を引き出した。今までの白いエヴァたちが振るったものとは異なる血の赤に似た叉槍は、死海の底からサルベージしたオリジナルの“ロンギヌスの槍”。
ギイイイイィィィィェェェェエエエアアアアアッ
 押し出された勢いに赤杭が頸に手首に食い込んで、メファシエルは力なくもがき喘ぐ。その有り様を機械の四眼で無感情に見下ろして、3機は使徒を縛る鎖を手放した。
 じゃらん…と枷を鳴らして最後の使徒が解き放たれる。本能か、もしくは浄罪を成し救済の途につきたいが故か、白機たちに掲げられ下方から昇り来るリリスに向かい、メファシエルが舞い降りようとしたその時
ザシュ…
 三たび肉を穿つ音が夜空に響き、使徒の胸と思しき部位にある赤い光球・コアが3方向から貫かれた。
 呻き声を上げる間もなく“扉を開く”使徒・メファシエルは活動を停止する。通常ならば出口を見失って暴走・爆散するS2機関のエネルギーが、3方から穿ち抜く赤い叉槍によって捻じ曲げられ、形而上/形而下境界・事象世界面を突き破り…
 溢れ出す光の奔流。エン・ソフ、光輝への回廊が開かれた。



 拾参号機の紅い五眼が、対峙する白機の肩越しにその光景を捉えた。
 貫かれた使徒の遺骸が、3本の赤い叉槍の交差する一点に呑みこまれる。捩じられ曲げられ押し縮められ、凝縮されてその巨体全てが消えた瞬間、同じ一点より光の奔流が溢れ出し、掲げられたリリスを照らした。
(始まってしまったのかい…)
 上空のただ一点より、突如として放たれた光にカヲルの気が逸れる。その光景を何度見たのかはもう憶えていない。しかしその光を見ていると呼び起こされる、硬直と静謐のイメージ。かつて自身が属していた領域の産物でありながら、それが今はひどく忌わしい。
「くっ!」
 蹴られた拾参号機腹部からのフィードバックに、カヲルが短く息を吐いた。しかしその隙を逃さず、拾参号機から離脱した白機は勢いのままに羽ばたく。足下に足場のATフィールドを展開して追う拾参号機を振り向きもせず、上空の光の源を目指して。
 そして、翔け昇るいま1機の白機を六号機が追った。加速する白翼の後姿は易々と拾参号機と六号機を引き離し、掲げられたリリスに接近すると、叉槍を構えて突き下ろす。
 鈍く湿った音に、光に照らされ噴き上がる赤。2本の叉槍は碇ユイ、人の女そのままの白い下腹部を刺し貫いた。
 刺された槍は引き戻されることなく、内部をこね回すように抉り傷口を押し広げる。白機は執拗にその行為を繰り返し、飽き足らずに槍を引き抜くとまた刺し貫く。何かを探るように幾度となく刺しては抉り、抉ってはこね回す。溢れ出した赤い血液に似たモノが、長く尾を引いて地上にジオフロントに降り注ぎ、闇夜になお濃く濁った血溜まりを造って


 やがて、叉槍に刺されて天高く差し上げられたモノは


 青い双剣を振りかざし、翔け上がる四号機がリリスを掲げた白機に迫る。
「それが人の、生命の持つ原罪だとでもいうのか」
 おぞましさに吐き気がしたが、メイヴは直視し青い瞳を逸らさない。


 リリスの腹から槍に貫かれ、首級のように血塗れて差し上げられたもの。未だ脈打ち、鮮血を噴き上げる器官。


 空中に階段を造って立つ拾参号機の中。その光景に紅と灰、カヲルの色違いの瞳が冷徹に細められた。
「…人が人を苦しめる。人が人を殺す。恐怖に苦痛に駆り立てられて唯一、人のみが人を傷つけ得る。その恐怖、その苦痛、その孤独…その全ての根底にあるものが“死”の不安であるならば、“死”を生み出すものは“生”そのものに他ならない。生まれるから死に至り、死ぬからこそ生まれ落ちるのだから。表裏である生と死。その源はすなわち……」


 原初の生産、生と死の源たる生命の御座。
 子宮だった。


 空の一点より溢れ拡散する光が、差し出される血塗れた子宮に向けて徐々に収束をはじめた。重なり束になるにつれて、光は更に強くなってゆく。フィルターを通さぬ肉眼で直視すれば、たちまち焼かれ失明するほどに。
(人は…)
 遮光フィルター越しでもなお眩い輝きを見据え、メイヴが青い目を細める。このままでは義人結社が求めた“罪の源”リリスの子宮が光輝の内に消える、即ち浄化されれば全てが結社の目論見どおりだ。
(自らの行動の責は、自らが負うべきだ)
 誰かの何かのせいにするのでは、何も変わらず何も変えられはしないのだ。だから
「させるか!」
『待て、メイヴ!』
 キナンの制止を振り切って四号機が光の束に突入する。しかし広げた翼が強さを増した光に触れた瞬間、白い羽状器官を散らして砕け散った。


「蝋で固めた人造の翼では、強過ぎる光のもとでは溶け砕ける他ない。しかし…」
 カヲルの瞳から、先の冷徹が潜み消えた。懐かしい感覚が翔けてゆくのを捉える。ああ、来るんだね君は“また”… いや、幾度でも。
「地獄の劫火で灼き鍛えられた黒鉄の翼ならば、どうか?」


 機体への衝撃に逆さまに落下する四号機。しかし
《メイヴっ》
 脇腹で疼いた痛みと、こころのどこかの呼び声にメイヴは停止しかけた意識を取り戻した。声の主を問う間もなく、意識を集中して完全な翼のイメージを思い描く。地表に激突する間際、四号機は散った羽を復元して体勢を整え飛び発った。
 光に覆われてゆく世界に黒く濁りを広げるように、視界に翔ける十二の剣翼が大きくなってゆく。
(…来たか)
 メイヴはガウン越しに腹の朱の痕に触れた。この痛みがある限りは生きているとわかる。来るだろう、ともわかっていた。シンジの内に残してきた火が、共鳴でもしているのか。今はこの痛みの持ち主が強く思うことは、我がことのようによくわかる。
 この痛みの持ち主が、シンジが、これから何をするつもりなのかも。


 一点より一直線にリリスに向かって収束する光が更に強く輝きを増す。掲げられた子宮と叉槍もろとも白機たち・メルカバを呑み込んで。光輝の流れは地表へと降下するのと全く同時に、暗雲に覆われた夜空に伸びて暗闇を割り、天上の果て地下の最奥を貫く光の柱と化した。
 白く戒められた9人の子らの絶叫を、聞こえぬ声、声ならぬ声に変えて絞りながら。


 輝きの中、穿つように広げられた夜色の十二剣翼。その内より見下ろせば、地に下る光が枝分かれして伸び広がり、天に昇る光が細かな網目のように白く塗られた空を覆い尽くしていく。
 地に枝葉を、天に根を張る逆さまの光の巨樹を前に初号機は静止した。

 抱き締める手に、不意にこめられた力に戸惑う。顔を上げ、レイがひとつきりのその瞳を見ようとしても、シンジは強く抱き締めそれをさせない。
(碇くん…?)
 触れ合う心で問いかけても応えはなく。ただあたたかな沈黙だけがそこに響き、レイもシンジを抱く腕に力をこめた。
 あなたとなら、何処へでも。
 そう、レイが伝えようとした瞬間に吐息が重ねられた。シンジから、奪うように強引に。そして
 とん、と、そっと両肩を押し出されて紅い瞳が見開かれる。どうして? 問おうと声を出しかけてシンジの口が開くのが見えた。血を失った蒼白の顔に、やさしい眼差しはあの幼い頃のまま。
(待っ……)
 手を伸ばそうとして視界は暗転し、浮遊感が身を包む。白く眩い視界に、レイは己が溢れ広がる光輝の流れの中にいることに気づいた。咄嗟に蒼い翼を広げ、光の樹に向かって翔ける初号機を追いかけようとして…
 閃いた青に蒼い前髪が数本、切れて落ちた。
「どいて」
 眼前数センチにまで迫って止まった青い刃の切っ先にも、真紅の瞳は瞬きもしない。尖った視線が白騎の半仮面に据えられて、その繰り手への怒りが震える声音に滲んだ。
 左手に携えた青の大剣をレイに突きつけ、復元した翼を広げて四号機がそこにいる。
「行かせんよ」
 強く押し殺した声でメイヴが告げた。ゆらがぬ意志を顕わして、剣の切っ先は寸毫も動かない。まるで、それがシンジの意思であるかのように硬く、強く。
「関係ない。あなたには」
「それはワタシが決めることだ。ワタシはアレの、シンジの応えを聴きたい。それにはキサマは邪魔だ。傍にいてはシンジがゆらぐ。キサマとて本当は…」
 わかっていように… 続くメイヴのもの言いに、抑えつけていたレイの感情が一瞬にして弾けた。この女はどうしていつも、シンジのことを誰よりも理解しているような言葉を吐くのか。肺腑を焼く焦燥と妬心に駆られ、レイは更に一対の蒼い翼を具現し刃と成す。蒼い光粒子が渦を巻き、淡く輝く菱形の剣へと変わった。早く、早く、このままでは傷つき血を流す碇くんが…
 その想いを知ってか知らずか、メイヴの言葉はレイとは対照的に平板なものになっていく。
「押して通るか? やってみるがいい。リリスの映し身。女神が相手でも、この剣は元来“そういうもの”を討つためにある。容易にはいかんぞ」
 シンジの意思を借り受けたこの剣に、キサマを討てる道理もないがな… 胸の内で言葉を飲みこみ、メイヴは四号機右手の小剣をいつでも突けるように引き構えた。
(ありがたいよ綾波レイ。キサマが猛り滾るおかげで、ワタシは冷静になれている。この翼さえ溶け落ちぬのなら、ワタシとて…)

 溢れる光の潮流を間に挟み、紅蓮と青焔が火花を散らす。ひとりは少年の…男の生命を想い、いまひとりは男の意思を尊ぶために。


 白く塗りつぶされてゆく世界の中で、地に枝葉を広げ、天に根を張り廻らせて成長を続ける光の巨樹。見る間に太さを増してゆく幹を廻って、拾参号機が鬣振り乱し文字通り“駆け”る。
「まったく彼女らはどうしてこう……」
 六号機のキナンに反対側へと回るように言ってから、カヲルは憤懣を抑えてレイとメイヴを仲裁すべく拾参号機を急がせた。今は互いにいがみ合っている場合ではない。『義の人の教説』の記述どおりなら、光の巨樹“生命の樹”の顕現と成長に伴って、それを守護すべく顕れるモノがいるのだ。看過すれば何もかも、シンジの行動も全て水泡に帰してしまう。
(キナン君も、素直に聞くかはわからないけどね)
 六号機は、カヲルの言葉に是とも非とも返答せずに飛び去って行った。何を考えているのかは、これからどうするかを見るほかない。
 見下ろせば、地に広がる枝葉に葉脈のように走る光の筋が、きらきらと煌きながら白く輝く粒子を撒いている。
(もう還元がはじまったか……っ!)
 生身を叩くような圧倒的な存在感に、カヲルは即座に顔を上げた。見渡せば、光の巨樹と同じかそれ以上に強烈な光の起点が無数に宙に浮いていた。
 拾参号機の五眼を通して、そのひとつに目を凝らす。肉眼で直視すればたちまち焼かれて目が潰れるほどの光の中に、四肢を備えた真白い人型がぼんやりと捉えられる。六枚の翼を備え、輝きながら回転する炎の剣を携えて。
 光の群れは二手に分かれ、一群は天翔ける初号機を追い、一群が残って拾参号機と六号機、そして四号機とレイへと群がった。神の秘に触れんとする者を、S2機関…生命の実に触れた者を罰するために。
「…“生命の樹”の番人、ケルヴィム」
 拾参号機が両足下だけでなく両掌にもATフィールドを展開する。レイと四号機は気づいているのかいないのか。未だ対峙を崩していない。
「何をやってるんだ君たちはっ!」
 迫る敵群に気づかせるため、拾参号機がATブレードを振り下ろさんと右手を上げた。


 近づくケルヴィムを余所に、衝突する気迫に視線が焦げ爆ぜる。レイが蒼い刃翼を、メイヴが青の大剣を振りかぶり
「わたしはあなたが大嫌い。あなたが碇くんを戦いに駆り立てる!」
「ワタシとてキサマなど大嫌いだ。キサマさえいなければアレはあんな深傷を負うことはなかった!」
 レイと四号機が迫り交差し、互いが互い目掛けて刃を剣を振り下ろす。蒼の刃は四号機を、青の剣はレイを袈裟に斬り裂く刃筋を通って…

「!?」
 振り下ろす寸前、拾参号機の右手が止まった。

 神の被造物の血は残らず全て赤いのか。白い光に満たされゆく世界を、鮮血の赤が飛沫いて彩る。蒼の刃は四号機の背後に迫ったケルヴィムの首を刎ね飛ばし、青い大剣はレイの背後に降り立ったケルヴィムを唐竹割りに叩き斬った。

「「………」」
 返り血を浴び半身を染め抜いて、白い空中を赤く穿つようにレイと四号機が互いに背を向け並び立った。
「…碇くんは、戦いなんて望まない」
「“だから”シンジは戦っている。終わらせるために。オマエは誰よりもそれをわかっているはず……来るぞ」
 肉塊となって地に落ちる2体を皮きりに、ケルヴィムの群れが一斉にレイと四号機を目指して襲いかかる。
 レイとメイヴは互いを弾き飛ばすように分かれると、ケルヴィムの群れを迎え撃つために翔け上がった。1体たりとも初号機には近づけさせない。邪魔させない。それだけが、今はできることの全て。
 真白い世界に、鮮血のカーテンが舞い降りた。




 第1主モニターを始めとして、第2主モニター、サブと、発令所の全てのモニターが次々に目が痛くなるほどの輝く白に塗りつぶされてゆく。
 地表のセンサーは崩落に伴いほとんどが機能を停止。地上の現況を知る術は人工衛星からの映像だけだが、送られてくる映像は変わらぬ一面の白のみ。かろうじて最低限の機能を保つジオフロント内のセンサーだけが、僅かな観測情報を発令所にもたらす。
「…そんなことって」
 空いた天蓋から本部施設・メインシャフトへと射し込む光。その正体を探ろうとして、コンソールを前にしたマヤが目を見張った。
 拡大映像は光の触れた箇所が小さく煌く白い結晶と化し、粉々に崩れる過程を捉えている。僅かに生き残った、アームを備えた調査ロボットを使って結晶のサンプルを回収。マギに分析させた結果は…
「NaCl、塩化ナトリウム。塩になってる…」
 しかし呆然としたままではいられない。光は徐々にその照射面積を拡大している。このままでは発令所ごと、聖書に記されたロトの妻のように塩の結晶と化すのも時間の問題だ。
 マヤはマイクを掴むと音量最大、迷わず施設全域に回線を開いた。



 アスカとヒルダを載せたキャスターが車輪を軋ませ、発令所へと向かって通路を走り抜ける。リツコとベアトリスら医療スタッフが走りながら応急処置を行い、その周囲をリツコが発令所から同伴したスタッフとレンヤが警護に当たっていた。
『ジオフロント内にいる全ての人に告げます。大至急、第2発令所へ退避してください。空から降る光には決して触れてはいけません。繰り返します。ジオフロント内にいる全ての……』
 突如大音量で流れた放送に一瞬、処置に集中する者を除いて全員が視線をさまよわせる。その中でただリツコだけが、蒼褪めたな顔で眉をひそめて通信端末を取り出した。
(触れてはならない天の光。ソドムとゴモラ……)
 恐れていたことが次々と現実になる。天の光は光輝の源エン・ソフへの回廊が開き、万象の唯一への逆流が始まった証だろう…全てがもう手遅れなのか?
 否、とリツコはひとり首を振って発令所への通話をオンにした。シンジ君が空へと翔けて、自分はまだ生きている。だから今は、信じて戦う以外にない。生きるべく。
「聞こえてる? マヤ」
『…先輩! 無事で……』
 声から嬉しさが聞こえてきそうだったが、今はその相手をしてもいられない。
「天の光、事象の塩化が始まったのね?」
『はい、現在メインシャフトを中心に現在秒速2.32mの速度で照射面積を拡大中です』
 マヤも心得たもので、すぐに私情を交えぬ現況の報告のみに徹した。
 光の広がるその速さは、リツコの予想よりも速くもなければ遅くもない。それがいつまで保つかもわからなかったが、防げる盾がただ一種・ATフィールドだけなのは使徒戦と同じだ。
「いいこと? 第2発令所の生命維持と切り離し、外装パージに要する以外の全ての電力を参号機の在る位置に回して。今すぐに!」



 発令所からの誘導に従い、残った僅かな内部電源を使って参号機が左脚と右手で這い進む。なんとか電池の切れる前に、本部施設のすぐ脇にある非常用電源ケーブルに辿り着くことができた。
 背部の装甲をパージして、参号機は右手のみで器用にケーブルの端子を嵌めこむ。
「準備はええで、伊吹はん」
『了解。こちらでも確認しました』
 参号機のいる位置は、第2発令所が本部施設から切り離された際、転がり出る予想ポイントに合わせて設定された。
 後は、第2発令所への退避の終了を待つばかり。無論、天から降る光がジオフロントを覆い尽くし、参号機への電力供給が途絶した時点で何もかもが塩と化す。
「なんや…みんな塩になってまうんか」
 崩落を続け、広がる天蓋の穴から降り注ぐ光の柱。その荘厳なのか間抜けなのかわからない光景を眺めながら、トウジが眩しさに細い目を更に細めていると
『鈴原君』
 小ウインドウがプラグ内スクリーン上に現れ、リツコが話しかけてきた。
「リツコはん、無事戻れたんやな」
『…あなたのおかげでね。それと、ヒルダとアスカは無事よ。命に別状はないわ。槍のフィードバックがどんなショックを与えているのかわからないから、絶対安静だけど…』
「さよか…」
 ぶっきらぼうにも聞こえるトウジの返事だったが、大きく吐いた息には深い安堵があった。そして
(ん…なんや…?)
 発令所からも同じ光景が見えているのか、ウインドウ内が沈黙に包まれる。光の柱が細かに分かれ、大きな輝く枝葉を伸ばして瞬く間に広がり出した。
『鈴原君、ATフィールド展開準備』
「応」
 その枝葉の伸長と展開に合わせ、ジオフロント内が天上よりの光を受けて煌く白い塩の輝きで満ちていく。
『…苦労をかけるわね、あなたにも』
「ワイの決めたことや」
 迫る光の枝葉を見据え、トウジは握るレバーに力をこめた。




 駆ける足音と怒鳴り声。床面には血の染みが落ち、喘ぎと呻きが後に続く。ケージから第2発令所へと続く通路は、ネルフ設立以来はじめてとも言える喧騒に包まれていた。
「急いで! 負傷者を優先。敵兵も可能ならば無力化して確保、誰だって塩にはなりたくはないでしょう」
 ミサトを筆頭とした救援部隊がケージを側面から急襲し、負傷者と残留スタッフの誘導に入ってからかれこれ20分。しんがりをミサト他3名が務め、全員が発令所へとひた走る。
(…塩になっちゃうなんてね。ほんと、聖書の時代に逆戻りってこと?)
 最初にリツコからの通信で聞いた時、ミサトは何かの冗談かと思いかけたが、この状況で悠長に冗談が言えるはずもない。更には裏付けるようにケージ天井の一角に伸びてきた細い光の筋から、白く細かい塩の結晶が降り注げば、そんな突拍子もないことも現実として受け留める他なかった。
 つまりこのネルフ本部施設の外は、全てを塩に変える光に満ちた、地獄じみた空間になっている。そんな中にいるはずのチルドレンとエヴァは、今頃一体どうなっていることか。今は伺い知ることもできない。
 そしてミサトにとっての気がかりは、何もチルドレンだけではなかった。
「日向二尉と津田一尉、山岸二尉は?」
 ミサトら即席救援部隊がケージに辿りついた時には既に、日向マコトが同伴したスタッフは4名しか残っておらず、激しい銃撃戦の中で死傷者を運ぶのに手一杯で、ロクに捜索もできなかった。
「山岸二尉については全くの不明。日向二尉と津田一尉は、チルドレンをエヴァに送り届ける際の戦闘で負傷したという証言は取れていますが…」
 ミサトと駆ける男のスタッフが答えた。ケージとて広い。弾雨の中を隈なく探していては助かる命も助からなくなる。更に拡大する光による塩化現象まで発生しては、生存者を優先して撤収作業を行う他なかった。
 ミサトが振り向いて見ると、後にしてきたケージ入口が淡く白く輝き出している。あの全てを塩に変える光の筋がケージ全体に広がりつつあるのだろう。そして光の筋は確実に、ミサトたちが走る通路に押し迫ってきていた。
 まごまごしてはいられない。全てが白く消される前に、早急に第2発令所をこの本部施設から切り離し、少しでも距離を取らねば…
「…お願い、無事でいて」
 発令所切り離しのために、現実に行わねばならない作業手順を頭の中で反芻しながら、相反する願いをミサトは口に出していた。
 この場でそれを咎める者は、いなかった。




(…く…っ……)
 頬を弾く軽い衝撃と痛み。背中の冷たく固い感触が日向マコトの意識を覚醒させた。
「気がつきましたか」
 瞼越しの眩さに瞬きしつつ目を開ければ、右に緑の瞳を持つ長い黒髪の女が薄く安堵の笑みを浮かべている。山岸マユミ、マコトを引き返せない場所へと誘った女… その漆黒の立ち姿に急速に今がどういう事態であったかを理解して、マコトはその身を跳ね起こした。
 ここは? 状況は? チルドレンは? 矢継ぎ早に問おうとして、乾ききった口内が言葉を上手く形にしないことに気づく。口の中にやっとのことで少ない唾液を貯め、声を出そうとすると
「おう、若いの。目を覚ましたか…の」
 すぐ傍らから聞き覚えのある、しわがれ声が話しかけてきた。鼻をつく鉄錆の匂いとともに。
「津田一尉っ!」
 立ち上がろうとして、身体が左に傾いていくのを止められない。倒れると思った瞬間、素早くマユミに肩を支えられてマコトは転倒を免れた。
「左脚に銃創が2つ。止血はしてありますが、早く処置しないと手遅れになります」
 マユミに言われて見れば、アシストギプスを着けた左脚が白い止血テープで巻かれている。しかしそんなものは津田に比べれば…
「そういう、ことだ。早く行け……」
 壁に背をもたれさせ、真っ赤に染まった腹部を押さえて津田が言った。呼吸に血が混じるのか、むせて一言ごとに血痰を吐きながら。
「…私がここに来た時には、もう……」
 マユミが辛そう目を伏せる。ここ、と言われてはじめてマコトは周囲を見渡した。狭い灰色の一室の中には、エヴァの拘束ロックボルト整備用の工具と一緒に自分たち3人だけがいる。ケージの倉庫の一角だ。
 どうしてここに…マコトはこうなる直前の最後の記憶を思い起こそうとする。トウジを参号機に送り届けるために慣れない銃を撃ち、撃たれて転げてまだ撃って、視界が一瞬で焦げ臭く白熱して… 額に触れてみると、巻かれた布の感触があった。
 そして今、腹を撃たれた津田一尉と一緒にここにいる。津田一尉は確か、チルドレンとケージの突入する際、エントランスに待機してもらったはずだ。つまり…
「津田一尉が、撃たれて気を失ったあなたをここへ運んだんです」
 マユミが事実を正確に言い当てた。
「年寄りも、捨てたもんじゃ、なかろう」
 きっと笑顔のつもりなのだろう。ん? と津田は顔を歪めてみせた。まだ硝煙の匂いの残るライフルを放り出しながら笑みを消し、鋭い眼差しでマコトとマユミを見上げてことばを続ける。
「いい、若いもんが… 命を粗末にするな」
 使い古された言葉だ。しかしその言葉が今は何よりも重い。
「そんな、僕は…」
 言い返しかけて、マコトは口をつぐまされた。何もかもを見通すような、老練な眼光に射竦められる。
「…日向、二尉。そこのお嬢さんも、な。君ら2人、死に急いでるようにしか、見えん」
「「………」」
「年寄りの、目は、誤魔化せん、よ」
 一言告げるごとに津田の息は荒くなる。空気よりも血を吸って吐いているのではと錯覚するほどに。
「…もう話すのを止めてください。あなたの身体が……」
 伸ばされたマユミの手を力なく払いのけながら、津田はなおも語り続けた。
「失くした、ものが、どれほど、大きくとも。生きて、いれば、新たに…創ることも、はじめることも、できる。おまけに君らは、まだ、若い。なんだって……」
「津田さんっ」
「津田一尉!」
 ごほっと血塊を吐いて津田が前にのめった。マコトとマユミは転ぶようにその傍らに寄るとその小さな、しかし頑健だった身体を支える。こんこんと咳き込む津田の口から散る血を顔に身体に浴びながら。
 津田がのめった身を支えられて起こし、震える指で倉庫の一角を指し示した。
「行け…あそこの、連絡通路、なら…発令、所に……」
「しかし…」
 こんな状態で置いては行けないが、動かせるような状態でもない。言い募ろうとするマコトに津田は
「儂は、一尉で、君は、二尉だ……命令だ、日向二尉。そこの、お嬢さんと、ここを、脱出、しろ」
「わかりました…」
 抑揚のない声で答えたマユミがすっくと立ち上がり、片手でマコトを引き上げ立たせた。
 なんで…と言いかけて、マコトは言葉を失う。その横顔、右の緑の眼が引きつれるように震えているのを見たから。人造の眼で涙は流れない。ならば見えぬ向こうでどんな表情を浮かべているのか。
「山岸さん…」
 その時、内側からロックされた倉庫入口の隙間を辿るように、白い光の筋が輪郭を縁取った。次の瞬間には輪郭が煌きの粉を撒き、さらさらと細かな結晶と化してゆく。
「…事象の塩化、供犠が開始されたみたいですね……」
 その光景を見たマユミが表情を強張らせ、肩を貸すマコトを半ば片手で抱きかかえるような体勢を取った。もう、一刻を争う。マユミはマコトを真正面から見つめると、躊躇う罅割れ眼鏡越しの瞳に告げた。
「時間がありません。いきましょう。2人で……生きられるだけ、生きなければ」
 気負いも遠慮もない眼差しに、迷いを振り払われてマコトも頷く。そう、生きなければならない。津田の行動を無にせぬためにも。
 マコトとマユミは津田に向かって最後の敬礼を送った。
「津田一尉…」
「…それでは」
 もう声を出す体力もないのか。津田も、沈黙のままに震える手で敬礼を返した。
 若い2人を見送るその目元を、小さく緩めながら。




「ちょっと、そっち押さえていてください」
「A型! A型のRH+の血液型の方いませんか! 輸血用血液が不足しています、協力を…」
「いい歳こいて暴れんな!」
「なんでB型ばっか怪我すんのよ。ただでさえB型は足んないってのに…」
 上部、中部、下部の3階層で構成される発令所の下部フロアは負傷者の手当てのために開放されており、医療スタッフや看護技能を持つ者が処置のために駆け回っている。明らかに人手も医薬品も足りていないため、その有り様は野戦病院か震災後の避難所の様相を呈していた。
 それとは対照的に、中部オペレーティングフロア、上部フロアに位置する指揮所で、静かに精密にこの第2発令所の切り離し作業が進行する。1つの計算ミスでも移動する耐圧耐爆球は大きく進路を変えてしまう。そんなことになれば、移動の困難な参号機で護りきれるものではない。
「軌道レール、異常なし」
「G11から21ゲートの隔壁閉鎖」
「同じく22から35までの閉鎖確認」
「各外装の解除準備完了。パージシステムオールグリーン…」
 作業の進行状況を伝える報告が次々と為される。元来発令所の切り離しシステムは、使徒のジオフロント侵攻時におけるエヴァの運用と指揮、マギシステムの維持を目的として造られたものだが
(方舟代わりに使うことになるとは、思ってもみなかったわね)
 ヒルダとアスカを中部フロアのベアトリスに頼み、上部フロアに上がったリツコが切り離し作業の指揮を執っていた。
「塩化現象、秒速8.6mで進行中。第2発令所に到達するまでの予想時間は821秒」
 準備作業は終了。残るは退避の完了を待って外装をパージ。第2発令所を本部施設から切り離して軌道レールを利用し、参号機がATフィールドで護りやすい位置まで移動するだけだ。
 サブモニターの1つの中で、参号機は既にATフィールドを展開。片膝を着き、いつでも移動できる体勢に入っている。
「ミサトたちは?」
「拡大する光を回避、迂回しつつこちらに向かって移動中です。現状のままなら切り離しに間に合いますが…」
 歯切れ悪く言いよどんだマヤに、リツコが怪訝な目を向けた。
「どうしたの? マヤ」
「いえ…なんでも……」
 作業の間を縫って、退避してきた人員のリストをマヤが幾度見返しても、日向マコト二尉の名はなかった。
 最後の望みは、ミサトたち部隊の最後尾だけだが…



 残り僅か150mほどを直進すれば、もう第2発令所を含む耐圧耐爆球のエリアに入る。ここまで来る間、ミサトは何度も後ろを振り返ったが、そこに在ってほしい人影は見出せぬままに現在に至っていた。
(日向君…山岸二尉……)
 儚い望みを抱いて、もう一度後ろを振り返る。しかしそこには白く無人の回廊が、虚ろに無機質な光を反射しているだけ。更にはるか向こうからは葉脈のような白い光の筋が増殖し続け、煌く白い結晶を振り撒きながら着実にその勢力範囲を拡大しつつある。
「葛城一尉、急いでください!」
 いつの間に足が遅れていたのか、先を行くスタッフに怒鳴られた。
「わかってるわ!」
 言ってミサトは床を蹴って身体を無理矢理前に進める。諦める他、ないのか…




(やっと行ったかの……)
 開け放たれた非常用連絡通路のドアを眺めながら、かふ…と津田は息を吐いた。もう吐き尽くしてしまったのか血も出ず、慣れてしまったのか単に嗅覚が鈍磨してしまっただけなのか、鼻の奥の鉄臭さもさして感じない。ただ少しずつ冷えていく身体を、他人事のように見つめているだけだ。
(ん……)
 視界の隅から刺すような白が津田を射る。視線だけを向けて見れば、倉庫のドアがきらきらと白い粉になって消え、溢れる白い光の奔流が怒涛のように倉庫内に流れ込んでくる。光は触れるものを片端から輝く白い粉に変えて、見る間に津田の足元に至り、そのつま先を輝く結晶に変えた。
 不思議と痛みは感じない。それどころか撃たれた傷の痛みさえも、ぬるま湯に溶け入るように消えて行く。その感覚に戸惑う津田に、ひとつの声が語りかけた。
(…?)
《痛みを棄ててください、苦しみを忘れて……》
 やさしい慈母のような声に呼び起こされたように、津田の中で消えない痛みの源が疼いた。微笑む妻と幼い息子がこちらを見て手を振っている。セカンドインパクト、あの惨事さえなければ、遅くに授かった息子は今頃あの日向二尉と同い年くらいだろうか…
 幻像の中で妻が口を開く。
《そんなに傷ついて…… あなた、もう充分ですよ。もう休んでください。痛みも傷も苦しみも、あなたを苛む全てが、今はもういらないものです……》
 憐れみの視線に、津田は理解した。ふん、と鼻息荒く顔には笑みが浮かぶ。これが何なのかはわからんが、わかることがひとつだけある。
「あいつがそんなこと言うわけなかろう。馬鹿にするな」
 残り滓のような体力を振り絞って最期の言葉を出した瞬間、妻と息子の紛いものは霧散した。すぐに消えかかっていた痛みと苦しみがぶり返し、声の出ない叫びが喉から迸る。
 白い光は足から腰へ、そして胸元までせり上がっていった。呼吸が止まり、心臓が結晶となって砕け散る。意識が途切れるその刹那、津田は遠く懐かしい声を聴く。

 わかってるじゃないですか、あなた…

 津田はもう一度、笑ってみせた。




 人間離れした駿足を持つマユミも、重傷者1名を抱えていてはそうもいかない。人工筋肉が悲鳴を上げるのを痛覚遮断を行ってやり過ごし最短ルートを測りつつ、普通人が駆ける程度の速さで発令所を目指す。振り向かず、前だけを見つめて。振り向けばロトの故事をなぞってしまうような、そんな気がしたから。
 左腕をマユミの肩に回し半ば抱えられるようになりながら、マコトは懸命に無事な右足で床を蹴った。蹴る度にその衝撃が左脚の傷を抉るように苛み、駆け続ける気力を削ぐ。倉庫を出て駆け出す前に、モルヒネを打ちましょうかとマユミに提案されたのを断ったことを少しだけ後悔する。しかし動けぬ男を抱えて走っていては、到底間に合わない。
 2人分の影が目の前の床に伸びる。光がもう、すぐ後ろまで迫っていた。ロクに動けぬ男1人を引きずった2人でなく、1人なら…
「山岸に…」
「だめです。聞けません」
 マコトが全てを言い切る前に、言葉はあっさり封じられてしまう。
「しかしこのままでは、君も…」
 それでも言葉を続けようとするマコトを、マユミは眼光鋭く睨んで言った。
「津田一尉に言われたことを忘れてしまったんですか? だとしたら幻滅です。痛いですか? 苦しいですか? でもそれが生きてる証拠。そこから逃げようなんて考えたあなたは、絶対に生き延びさせて後悔させてあげます」
 一息に言い切ると、マユミは走る速度を上げた。もうほとんどマコトの足は床に着いておらず、マコトが床を一蹴りする間に、既にマユミの足は10歩以上駆けている。
 光と影の彩るモノトーンの回廊を、ただ駆ける足音だけが響き
「でも、訊きたいことがあります」
 マコトを抱え切ってしまったことが、かえって負担を軽くしたのか、先に沈黙を破ったのはマユミだった。
「…碇シンジも、津田一尉も、それにあなたも、どうしてそんなにまでして、誰かを生かそうと死にたがるんですか?」
「どうして、って」
 当惑するマコトの視線から、マユミは目を逸らすと言葉を続ける。
「私は、そんな風にはなれない。私は、私のためにしか戦えないし、死ぬこともできない」
「………」
 再びの沈黙が空間を支配した。どうして、と問われてもマコトには明確な答えはない。死にたがっているつもりなど、ないつもりでいたが。漠然とした感覚を、ずっと昔から抱えているだけで。
 ふと気づけば、目を逸らしていたはずのマユミが色違いの瞳に、切実な懇願を浮かべてこちらを見つめてくるのがわかった。この感覚が、理由になるのなら…
「僕には…俺にはね、歳の離れた妹がいたんだ。セカンドインパクトの直前に生まれてさ、すぐにあれが起きて… その時俺は9歳で、服も食い物も何にもない時代だった。妹は3歳になるかならない内に、はしかで死んだよ」
 死んだ、その言葉に一瞬マユミの瞳がゆれる。
「生まれたばかりの頃は、そりゃもう大変だった。山岸さんも知ってることだと思うけどね。母親の母乳もストレスのせいか出なくて、配給の粉ミルクでなんとかやっとのことで育ててたんだ。家族全員でね。それを……」
 マコトの顔が銃創以外の苦痛に歪んだ。かきむしるように右手で己の胸倉を掴む。
「俺は、時々盗んで舐めてたのさ。粉ミルクをね。あの頃は甘いものなんてなかったし、両親が妹にかかりきりなのが、気に入らなかったせいもあったんだろうと思う」
 マユミはただじっと言葉を待ち続けた。咎めることも慰めることもせずに。マコトは呼吸を落ち着けると、また口を開く。
「それでもなんとか普通に、今の子どもに比べればがりがりの痩せっぽちだけど…育って、ある日突然高熱を出したんだ。医者にに診せたら、はしかだと言われて匙を投げられた。ワクチンも抗生物質もないから、手の施しようがないって……」
「………」
「たかがはしかだ。けど薬がなければ何もできない。妹はそのまま衰弱して、死んだよ。ワクチンも抗生物質もない時代には、はしかも充分、人が死ぬ病気なんだって、後でわかった。そして後でわかったことがもう一つ。……幼い頃の栄養摂取が、病気への抵抗力に影響するってね」
 そこで、マユミにもマコトが抱えた何かが見えた気がした。そうか、この人は…
「あの時、俺が粉ミルクを掠め盗っていなければ。もしかしたら……」
 妹は病に勝っていたのかもしれない。あるいはそんなことお構いなしに、はしかはあの小さな身体を蝕んでいったのだろうか。続けようとした言葉を、マユミが遮った。
「ごめんなさい。訊くべきではなかったかもしれません」
「いや… そんなんで俺は、僕は今の自分の生命を借りもののような物だって思ってた。それがきっと、津田一尉には見えたんだろうな…」
「……今は?」
 不意に問われてマコトは軽く驚いた。
「今は、って?」
 問い返すとマユミが少しだけ、何かを期待するように微笑んでいた。
「あなたは故意か無意識か“思ってた”と過去形で言いました。あなたは今、自身の生命をどう思ってるんですか?」
「相変わらず借りばかり作ってるよ。チルドレンとか、津田一尉とか…君にね。今は、借りを返さなきゃって思ってる。それには…」
 マコトは右足で床を蹴った。力強く。
「そうです、生きねばなりません」
 マユミも抱く腕に力をこめて、更に加速する。



 第2発令所へと至るG8ゲートを抜けたミサトは、立ち止まってすぐに振り返った。ケージから発令所へと続くゲートはG5から9。万一日向らが生きて辿り着くとすれば、そのいずれかになる。せめて限界ぎりぎりまでは待つ。そう決めてミサトは発令所に指示し、G5から9までのゲート閉鎖を止めさせていた。
 腕時計を眺めれば、設定した切り離し限界時刻まで残り僅か2分を切った。まだか、まだか…通路の先に目を凝らせば、白い光の葉脈が通路の壁面床面問わず増殖し覆い尽くそうとしている。
「葛城一尉、そろそろ…」
「待って鹿沼三尉、まだ90秒近くあるわ」
 スタッフの1人を残して、生存者は全員発令所内に入った。光はますます勢いを増し、全てを光の内に呑み尽くそうと迫る。
(もう駄目なの……)
 諦めかけ、ミサトがス鹿沼の方を向き後退の指示を出そうとしたその時
「音が…」
 鹿沼が聞き耳を立て前を見た。つられてミサトもその方角に目を向ける。そこには

 増殖する光の葉脈とゲートの中間地点。通路脇の非常口が内から切り刻まれて弾け飛び、中から2人が2人とも罅割れ眼鏡をかけた、奇妙な二人三脚の2人組が飛び出してきた。

「日向君! 山岸二尉っ!」
 ミサトと鹿沼が2人に向かって走り出す。



「葛城一尉と鹿沼三尉が、日向二尉と山岸二尉を確保しました!」
 マヤの報告が合図となって、発令所の切り離し作業が最終フェイズへ移行した。
「G5から9番ゲート全隔壁閉鎖。固定ロックボルト解除、外装パージ」
「了解。全隔壁閉鎖。固定ロックボルト解除、外装パージ」
 リツコの号を青葉シゲルが復唱し、この第2発令所を囲んで固定するボルトが油圧で引き抜かれた。同時に設備に仕掛けられた爆薬が点火され、抑えられ仕向けられた爆発力が耐圧耐爆球面を洗い、取り付けられた移動に無用な外装を除装していく。
 ゴゴンと響く重音が発令所内を揺らし、退避してきたスタッフたちがどよめいた。ゆっくりと、ゆっくりとではあるが軽い移動の感覚が、この場にいる者の足元から全身を包む。



『鈴原君!』
 参号機の背後、本部施設の側面が爆砕されて巨大な灰色の球が出現した。
「わーっとるわリツコはん。ようやっと出てきたんか…くっ」
 迫る白い光の奔流を阻むため、参号機は球へと身体を引きずりながら、展開したATフィールドを更に強く、大きくする。本部施設に這い伸びていた光の筋が、参号機のATフィールドの周囲だけを避けて流れた。
 崩落した天蓋から降り立った光の柱が、メインシャフトから本部施設の黒いピラミッドを覆い尽くし、やがて枝葉の輝きの内に全てを呑み込んで成長してゆく。
「なんちゅう…」
 スクリーン越しの光景にトウジは一瞬、是も非も忘れて魅入った。肉眼ならば捉えられぬ光の中の光景も、エヴァの眼を通せば見えてくる。ジオフロントを白く輝く枝葉で満たし、具現する光の巨樹。
 それは人の知覚において、圧倒的な存在感を持ってそこに在った。



 そして樹は成長を続ける。はるかな天から地の底へと。



 高みより降り来たる光の奔流は、瞬く間に大穴を空けたメインシャフトを抜けてその枝と葉脈を伸ばしゆく。すれ違う全てを白い結晶へと変えながら、やがて赤い湖水を湛えた空間へと至った。
《………》
 七つ目の仮面の浮く湖面に、仰向けに横たわる片腕の男が独り。宿主の生命が保たぬと察知しているのか、男の右半身を覆う灰色の異物が、ぎょとりと赤い眼を回す。ずるずると赤い水面へと触手を伸ばし、脈打ちながら今にも剥げ落ちようとしていた。
「く…ぐっ」
 同化した組織を無理矢理引き剥がされる苦痛にも、男、ゲンドウは時折くぐもった声を上げるだけだった。リリスを…ユイとレイを奪われた今、俺に一体何ができよう。
 人の形を保つ左眼が、降り注ぐ白い光輝を捉えた。光は無数に枝分かれ、側壁を這い廻り空中を満たし、ターミナルドグマの全てを白い結晶・浄化の証である塩へと変えてゆく。
《…浄化の塩柱。補完計画》
 虚しかった。今が。今までが。ユイを贄へと差し出したあの日、胸に空いた虚無が嫌というほどにその輪郭を顕わにする。
《神への道、か……》
 胸に穿たれた虚無を埋めようと費やした10年余だった。しかし今はその時の重みが、埋められぬ大穴となってゲンドウの胸を抉る。苦痛を感じる痛覚など、アダムとの同化で残ってなどいないというのに。今はそれを“痛み”だと感じる。耐え難いほどに、その重みに押し潰されそうなほどに……胸が、痛む。
 今は早く、この痛みを感じる“自分”などというものを失くしてしまいたかった。痛みを受け留める主体がなくなれば、この苦痛も消え去るはずだから。
 光は全てに対して平等に降り注ぎ、触れる何もかもを白い光輝の内に包み込む。リリスを磔にした漆黒の十字架も、赤い湖水も、そして…
 ゲンドウの耳元で聞き覚えのある、懐かしい声がした。
《痛みを棄ててください、苦しみを忘れて……》
 求め続けたものが、やっと
『ああ、君なのかユイ。私は…俺は君に訊きたかったことがある。答えを教えてくれないか?』
《なんでしょう?》
 小首を傾げる仕草は、あの頃のもの。歓喜に躍る胸に衝かれ、ゲンドウはずっと秘め続けた問いを口にした。
『俺は…俺は君に、愛されていたのか?』
 それは、光の内に消え去った“女”のかすかな残滓だったのか。
《…辰慈は、あなたの決めた名ですよ》
 孤独と猜疑に苛まれながら待ち望み続けたことばは、砂漠に降り注ぐ慈雨のように、ゲンドウの胸に茫漠と広がった虚無を満たす。
『そうか…… そうだな』
 白く煌く結晶となって砕ける直前。浮かべられたその笑みは、父親の持つそれに似ていたかもしれない。
 夢に似た世界の出来事は、光輝の内に呑まれて消えた。





 白の地平に黒い軌跡が巡る。
 地に枝葉を、天に根を張り、全てを呑み込みながら成長を続ける逆さまの光の巨樹。生命の樹に絡みつくように、十二の黒翼を持つ影が螺旋を描いて翔け昇る。行く手を阻む光の群れ、ケルヴィムを剣の翼をもって薙ぎ払い、上へ上へと羽ばたいて。
 張り廻らされ広がる光の“根”に近づくにつれて、黒鉄の剣翼は熱せられ赤色を帯びた。でも大丈夫。シンジにはその知覚がある。透明な青の火に打ち鍛えられたこの剣。溶かし壊せるのは紅い瞳が織り成す絆か、同じ青い火だけだから。
(ありがとうメイヴ。レイを止めてくれて)
 この想いは、果たして届いているのだろうか。シンジは強さを増す光を前に目を細める。上を目指す初号機の眼・センサーはもう用を為さない。プラグ内スクリーンを眩い白が埋め尽くし、シンジ自身の体やシートの作る僅かな影すら舐め取られ、輝きの内に塗りつぶされた。
 ひとつ残った右眼を閉じて、シンジは瞑った左の瞼を開ける。使徒に抉られ空洞となった眼窩が、唯一の暗闇となって光を捕らえた。
 万象の源。全てが其処から流出し分かたれた光輝の御坐。虚空、エン・ソフへの回廊たる生命の樹の根。その脈動する在り様を感じ取る。物も、人も、罪も想いも何もかもを“元”へと返し、書き換えようとする逆さまの流れを。
(“其処”か……)
 見えぬが故に本質が“みえる”。“其処”がこの流れの、この戦いの根源だと。ならば…

 絶ち切る

 十二の剣翼が黒い炎を帯びながら十二の腕に変わる。初号機は手に手に武具を構え、光の中心、巨樹の根へと刃を振るって分け入った。



《ありがとうメイヴ…》
(…ばかだオマエは)
 青い大剣が回転する炎の剣を打ち砕き、無拍子に繰り出した小剣がケルヴィムの白首を刎ね飛ばす。返す刃が背後に降り立ったもう1体の胸を抉り、振り向きざまの大剣がその胴を薙いだ。
(だがわかっているのだろうな。シンジ、オマエがこの世にいないのなら、ワタシは悪魔になるしかないんだぞ…)
 血飛沫舞わせ双剣を振るって群がるケルヴィムたちを屠りつつ、メイヴは薄れゆく朱の痕に触れてその痛みを追った。小さくなる疼きと心の声。あの傷が癒えているはずもない。ならばシンジはもう、この世界と隔絶した領域に入り込んだのか。あるいは…
(否!)
 激しく頭を振りながらメイヴは青い剣を振りかざした。斬り砕き屠るそばから、ケルヴィムたちは新たな光となって生まれ出てくる。その有り様に苛立ち、ぎしりと歯を軋らせた。憤怒の焔が腹の底から迸り、剣捌きとなって顕れる。我等はキサマ等を世に顕わすために生きてきたわけではない。万度殺してもまだ出てくるというのなら、千万度殺して殺して殺し尽くしてやる…
「我等の怒りと我等の嘆きを知るがいいっ!」
 青の大小双剣を振りかざし、メイヴは咆哮する。何処に向かって? ケルヴィムどもに、生命の樹に、白に塗りつぶされてゆく世界の全てに向かって絶叫にも似た鬨の声を上げた。
「“それ”を否定するキサマ等などに、好きにはさせない! やらせはしないっ!!」




 本当は、ずっと心のどこかでわかっていたのかもしれない。こうなることを。この街で再会したあの日に見た<13番目の危険の座>の幻影が、今の全てを暗示していたのか

(…そう多分、ほんとうはわかってた)
 白い光の中を蒼が閃き弧を描く。伸びゆく巨樹の光の枝葉よりも速く。回転する炎の剣よりも疾く。翔け抜ける蒼が細く鋭く、初号機を追って昇ろうとするケルヴィムたちを赤く染まって落ちる肉塊に変える。
(きっとわかってたから、止めたかった。この身を引き換えにしても。何もかもが消え去っても。わたしはあなたを失いたくない。あなたが傷つかねば永らえられぬ世界なら、世界の方が間違ってる……)
 しかし、シンジは離れていった。失くさぬために、身を引き離す。その矛盾がレイを灼き焦がす。わかっている。失くすのが恐いからシンジは戦っている。だが、わかっているのに問わずにおれない。どうして、どうして碇くん……
 問いながらレイは背から生える四枚の刃羽根を薙ぎ振るった。エヴァの全長ほどにも伸びた蒼い刃は、重みも空気抵抗もなくレイの意のままに疾り抜け、易々とケルヴィムを解体してゆく。
 しかしその刃羽根、蒼い光の翼の力でも、シンジが向かった白い光の巨樹の“根”には近づけない。おそらくは同根の力ゆえなのか、近づくほどに蒼い翼は光の粉に戻って散り、揚力を失う。
 真紅の瞳が間断なく動いて周囲を窺う。血煙の幕の向こう。レイを囲むように次々と小さな光の起点が顕われ、強さと大きさを増して渦を巻き、瞬く間に白く巨大な人型になる。回転する炎の剣を両手に携えて、ケルヴィムたちは一斉に有翼の少女に襲いかかった。
「くっ!」
 同時に振り下ろされた炎の剣をかいくぐり、レイはケルヴィムたちの頭上に出る。危険に晒された心臓が、激しく鼓動を打ち鳴らした。重なるようにもうひとつの鼓動も。無意識に腹部に触れる手に、自覚なき凶暴なる感情が沸き上がる。そう、殺そうというの。碇くんと、わたしと……
 レイの背の刃羽根が“ぶれ”たかに見えた瞬間、四対八枚にその数を増やし、ぴしりと音を立てて額が割れ、第三の瞳が顕れた。
「………」
 三つの真紅が生命の樹の守護者たちを見下ろす。死刑宣告者の冷厳を以って。
「でもだめ。先に消え去るのはあなたたち」
 八つの刃羽根が光の中に躍った。飛び散る赤い飛沫で白空を蹂躙しながら。



(これが、そう、なのか…)
 巨樹を廻って飛ぶ六号機の中で、キナン・ガシュアスは感じ取る。委員会、義人結社の目指すものの正体と、そのために費やされた同胞たちの嘆きの残滓を。
 全てをはじまりに戻す逆さまの樹。その具現に至る刹那に聞こえたのは断末魔。キャメロットとカッツバルゲル、幾多のエヴァを駆るべく育てられた者の、9つの絶望と悲嘆の叫びだった。
 叫びの内に仲間がいたわけではない。親しい者がいたわけでもない。北米支部での8年間で、そんなものはいたことがない。
 しかし… そんなことのために犠牲にされるほど、彼等が罪深かったわけではあるまい。
 静かなる胸の内に沸沸と起こるものを見据えながら、キナンは六号機の叉槍を巨樹の幹に向かって突き通した。次の瞬間
「……ぬぅ」
 叉槍の作る裂け目から光の粉が溢れ出し、渦を巻いて凝結する。凝結した光は瞬く間に膨れ上がると、無数の新たな白い翼を持つ人型に変じて六号機に襲いかかった。



 翼も持たずに白い空を駆けながら、鬣を震わせ灰色の祭司が両手を振るった。白い光の中にあってはかすかにしか見えない八角光・ATフィールドが、まるで見えない魔法のように頭上のケルヴィムを斬り刻んで落とす。
 カヲルはそのまま切り開かれた上空を見上げ、色違いの瞳を細めた。しかしそれは降り注ぐ白い光の眩しさのせいではない。光輝に満たされた一点に、小さく穿たれた黒影こそがカヲルにとっては眩しいものだ。
(人ひとりの意思が“彼”に対峙し得るのか。君にはいつも驚かされる。“僕ら”にはできないことだからね。だから…)
 かつて自身が属したモノたちに向かって、光の刃を薙ぎ振るう。
「僕は君を助けるのさ。いつでもね」
 ひとり呟くと、カヲルは笑った。晴れやかに。








 瞑った右の瞼の裏と、抉られた左眼が捉える白い世界。
 昇っていたはずなのに、足元から背筋を“引く”感覚が這い登る。感覚はすぐに強さを増し、上下前後左右へと、あらゆる方向へ等しく落ちるような奇妙な感覚へと変じていった。
 そして、落ちながら昇り昇りながら落ちるその感覚が、やがてあらゆる方向へと等しく変わり均一の静止点へと至る。其処には色彩もなく音もなく、身体に触れていた衣服の触感も失せ、匂いもなく、口の中の薄い塩味に似た血の味も消え、遮断された感覚が自己と理由を奪おうとする。感覚の入力を失えば、人の人格は容易に崩壊するものだから。

 僕は何者であるのか… 僕は何故にここにいるのか

 ただ、右手に握り締めた硬い感触だけが在った。
 己の形を見定めるように、握る右手に力をこめる。そうすれば、今がいつでここが何処で、自分が何者なのかわかる気がしたから。

 ……?

 その時、きこえた。耳に聞こえぬその“こえ”は自らの内より出た自らの声のようであり、ざわめくしわがれた老人の声のようでもあり。

《“それ”を棄てよ。“それ”は此に持ち込んで良いものではない》

 そうなんだ…と頷きかけて、止まった。きこえてきた“こえ”に対して湧き上がった反意に自身でも驚く。
 “こえ”は更に繰り返した。

《“それ”を棄てよ。“それ”を棄てよ。“それ”は此に在ってはならない》

 執拗に、棄てよ、棄てよと。でも、今は棄てることなどできない。だってこれは、とても大切なものだ。それだけはわかる。
 だから棄てられずにいると

《“それ”を棄てよ。その手に握り締めているものは怒りであり嘆きであり痛みであり恐怖であり不安であり憎しみであり哀しみである。“それ”を棄てよ。そうすれば……》

 そうすれば、どうなるというのか。

《全てがはじまりから新たに織り直されるであろう。遍く慈愛の光のもとに。癒しのもとに。永久の平和と安息が約束される。
 故に“それ”は此に在ってはならない。此に至るだけの必然を持った貴様ならわかるだろう。“それ”は人を苦しめ苛み争わせるだけのものだ。人は既に、これまでの刻の積み重ねの中で痛みに喘ぎ苦しみに耐え抜いてきた。贖罪にはもう、充分ではないか》

 …そう。きっとそうなんだろうと思う。痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だ。誰だってそうだ。この手に握り締めた“こんなもの”は、棄ててしまえばいい。消し去ってしまえばいい。そうすれば楽になれる。痛くなくなる。苦しくなくなる。そう思う。
 いや、思ってた。だから……
 握り締めた硬く尖ったものの切っ先を、穿たれた眼窩が掴む“こえ”の輪郭に向かって突きつけた。同時に小さく鋭い痛みが己の胸の中央に走る。対している“こえ”は自己なのか他者なのか、それすら此では曖昧として判然としない。
 しかしそれでも、力をこめて押す。激しい痛みが胸から背を裂き、意識を白熱の槍となって貫く。喘ぎながら、それでも。
 その行為に、全身を覆うように在りながら、虚空のように何もない“こえ”から驚愕の衝撃が発せられるのがわかった。

《貴様…… 貴様は、自分が何をしようとしているのかわかっているのか?》

 うん、わかっている… と思う。“これ”は……










 かつて第3新東京市を成していた天蓋防護装甲、各種兵装構造体の全てが光の枝葉となってジオフロントに降り注いだ。まるで鼓動を打つように強く白い光を明滅させながら、枝葉は更に成長と繁茂を加速させる。
 白く渦巻き輝く塩の地平と化したジオフロントで、形を保っているのは片膝立ちに盾となる参号機と、その背後の球体だけ。

「塩化現象、地下発電施設に到達!」
 オペレーターの悲鳴じみた報告と同時に主、サブを含むモニターの光が次々に消えていく。ジオフロントより更に地下、およそ3000mの地点にある原子炉に異常事態が起きた場合、発令所・耐圧耐爆球は節電モードに移行。残存電力はエヴァの運用・維持とスタッフの生命維持を最優先として利用される。一部コンソールが生き残ってはいたが、それもこの発令所だけとなった施設内のモニターと最低限の僅かな外部監視センサーの制御系だけだ。
「第2発令所生命維持、内部電源に切り替わります。赤木博士…」
 青葉シゲルに問われても、リツコは皆まで答える必要はなかった。傍らのマヤが黙って向かうコンソールのキーを叩くと、参号機への電力供給の限界値を弾き出して告げる。
「参号機の活動限界まで、推定9分24秒です」
 参号機が活動を停止した時点でATフィールドの盾は消え、参号機もこの第2発令所も光の内に白い塩の結晶と化す。チルドレンの行動も何もかも、全ては無駄だったのか… 下部フロアの喧騒を余所に、指揮所を支配した沈黙を
「A型! そっちにA型のRH+はいない? いたらさっさとこっち来て血ぃ出しなさいっ!!」
 階下から怒鳴るミサトの声が突き破った。何事かとリツコが階下の中部フロアに向かって身を乗り出すと、その声に被せるように
「日向二尉! 足や腕の1本や2本、駄目になったらなったでちゃちゃっと造ってあげますからしっかりしてくださいっ!」
 山岸マユミが日向マコトの耳元で呼びかけながら、手早くそのズボンを切り裂いて処置を行う。マコトは発令所に入った途端に気を失い、中部フロアのシートを敷いた床に寝かされていた。
(…そういうこと)
 先ほどから急にキータッチもミスが多く、そわそわと落ち着かなくなったわけは。合点がいったリツコはマヤの背中に問いかけた。
「…マヤ、あなた確かA型だったわよね?」
「え? あ………はいっ!」
 リツコの助手をしてたのは伊達ではなく、何のかのとマヤも頭の回転は速い。すぐにリツコの問いかけの意図を察し、席を立って階下に駆け下りて行った。
「いいんですか? 伊吹二尉を…」
「もう、できることはやり尽くしたわ。後は……」
 シゲルの問いに、リツコは僅かに耐圧耐爆球の外、白一色に塗りつぶされた小さなコンソールモニターを見遣る。その向こうで参号機に乗り込む鈴原トウジは己の身と心を盾としている。そして更にその向こうでは…… 暗い発令所の天上を見上げて想う。
(シンジ君……)
 あなたは何を、選び取るの?



(…くっ)
 デジタル表示されたカウンターに、トウジは眉を顰める。参号機活動限界まで残り9分を切った。白い光の奔流は止むどころか更に勢いを増し、大きく展開した八角光・ATフィールドを叩き続ける。質量などないはずの光が、ATフィールドを圧して参号機が地に着く足を後ろへと押しやった。
「こな……くそおぉおおおおおっ!」
 こみ上げる激情に身を任せ、トウジは参号機右腕にただ一本残ったプログ・ジャマダハルの刃を左足の甲へ向けて射出し、楔と成して地に縫いとめる。ここより後には一歩も引かへん。誰であろうが何であろうがここは通さへん。たとえ神さんであろーが…
 だが伸長し展開する光の枝葉はとどまるところを知らない。ついには第3新東京市地表の全てを大きく白い結晶に変えて、ジオフロントの参号機と耐圧耐爆球へと落とす。
(っ!?)
 鋭角の先端を持つ白く大きな結晶が3つ、槍の鋭さを持って参号機の頭上と耐圧耐爆球に向かって落ちた。ATフィールド全開・拡張…… しかし
(間に合わへんっ!)
 前方、光の巨樹から怒涛となって迫る枝葉に集中していたために反応が遅れた。それでも反射的に耐圧耐爆球への落下物を防ごうと、右手を動かしかけたその時に
 遠く弾き飛ばすような乾いた砂音とともに、参号機の足元に何かが突き立った。
(…何や?)
 思う間もなく、トウジは背中からの声を確かに聴いた。

 手伝っテあげルヨ。あんまり逆らわないデネ。もう少シ、もう少しだカラ……

「な… ヒルダはんっ!?」
 驚愕の刹那に、足元に突き立った竪琴の銀弦が髪のように生え伸びて形を変える。少年の意志を受けたかのように硬く強い、大きな銀のアイギス(盾)へと。
 何をすべきか瞬時に悟り、トウジは盾を手に取り振りかざす。間髪入れず落下した結晶が盾に弾かれ砕け散り、もはや濁流と化して迫る光の枝葉を弾き飛ばした。
 トウジは呼吸を整えいま一度、己の身体に尽きかけた力を漲らせる。
(…この盾は破れへん、絶対にや!)










 何もないけど何もかもが在る世界で、慄きが震えとなって伝わってくる。その慄きは“僕”のものでもあり、“あなた”のものでもある。わかる。わかるよ……
 でも、だからこそ“これ”は僕が負うていかねばならないものだ。“これ”は僕が負うて生きたいものだ。棄てられない。棄てたくない。この哀しみが僕にはいとおしい。この怒りを僕は抱いて生きたい。それがどんなに辛く苦しいことであっても。生きたいんだ。だから僕は…

《貴様の……貴様ごときの盲愛で、人から永久の安息と平和を消し去ろうというのかっ!》

 突如迸った憤怒に依り、時を経て蓄積され、結晶と化した憎悪と悲哀が雪崩れ込んでくる。人ひとりでは受け留め切れぬほどの絶望と怨嗟が、意識を内側から膨らみ圧してひとつのこころを責め苛んだ。
 異教徒の烙印を捺され、目を抉られ腕をもがれ足を切られ、腹を裂かれて己の腸に身を絡めながら街中の行進を強制される人々の群れ。魔女と名指され僧服の男たちに陵辱された後、火刑台に登らされる年若い女。機銃掃射を受け、血煙を噴き上げながら倒れ伏す刺青の戦士。病の源が塗布されているとも知らず、毛布にくるまってやせ衰えてゆく幼児。兵士に犯されながら腹を裂かれ、孕んだ胎児を引き出される妊婦。人の皮で作られるランプのシェード。人の脂質で作られる石鹸。雪中に落とされた馬糞を掴んで口に頬張るのは、死への行進を強要される飢え渇いた人々。終わりの見えない戦いの中、地雷探知機替わりに兵士たちの前を歩かされる少年たち。兵の性欲処理のために供される少女たち。販売臓器摘出のために、各年齢ごとに育成される子どもたち……

《“これ”が人だ。“これ”が世界だ。それでも貴様は棄てぬと言うか! それでも貴様は“剣”を止めぬか!》

 ………は…ぁ……く……………
 嘘偽りのない人の所業の数々。世界の在り様が知覚され、瞑った右眼が痛み出し、息が詰まり喉が燃えるように熱くなる。でも、気が狂わんばかりに泣き叫びたくなる衝動にも、耐えることができた。それはきっと…
 よぎる顔に思い浮かんだ想いを胸に。確かに聴いた鼓動を胸に。右手に握り締めた剣の柄を、力をこめて押した。胸の中央の激痛が更に激しく鋭くなり、神経を焼いて感覚を消し飛ばそうとする。それでも前へと刃を押し出す。

《その身体、戻ったところで長くは保たぬぞ。此なら全てが癒される。刻のはじまりより全てを織り直すことができる。傷も痛みも貴様が棄て、持ち込みさえしなければ》
 “こえ”は懐柔しようとでもいうように、先の憤怒と打って変わって穏やかになる。
 しかし、刃は止まらない。
《貴様は……》
 強さを増す慄きの“こえ”への応えは…

 胸を貫かれ、喘ぎ、ごぼごぼと口から血を吐き戻しながら、声にならないことばを紡ぐ。

 僕は、生きたい。僕は、在りたい。レイの哀しみと、メイヴの怒りと、打ち棄てられた嘆きと怒りたちが今、僕とともに在るように、僕は在りたい。僕は生きたい。この痛みがないのなら、それは生きているとは言えない。

 見えぬままに対する者を、“こえ”の源を抱き締めて、虚空に歳経た悲嘆の声が九つ上がるのを聴いた。

 誰のためでもない、僕は僕を生かすために、僕は僕を在らしめるために、あなたたちの意志を絶ち切る。だから憎むのなら僕を憎んで。恨むのなら呪うのなら僕にして。きっと僕は、人として人が犯す最大の罪を犯すのだから…… それでも





僕よ、在れ






 青い火を帯びた黒い剣は虚空の中心を貫き、同時にシンジ自身の胸を突き破った。その瞬間、心と身体の中を駆け抜けた衝撃に、強く瞑った右瞼の隙間を縫って、ひとしずくの清冽が流れ落ちる。
 それは痛みのためでも、況してや哀しみのためでもない、安息と平和への惜別が流させた透明な感情。







この時、世界に生きとし生けるもの全てが、己の内で何かが絶たれる音を聴いたという。





それは、おわりの音。それは、はじまりの音。そして……










<続く>





引用・参考文献 旧約聖書 日本聖書協会
(訳には若干の変更を加えてあります。著書の原文のままではありません)






予告




Evangelion Sword & Grail 最終話「あおのうつわ、しろいつき」



聖杯の秘蹟は、ただ一度



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