備後一宮 吉備津神社( いっきゅうさん) 本文へジャンプ

御祭神

ご祭神 
      主祭神
          
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
              

      相殿神
              大日本根子彦太瓊命おおやまとねこひこふとにのみこと
 
                   
           細比売命
くわしひめのみこと
 
                   
           稚武吉備津彦命
わかたけきびつひこのみこと
 
                   


 第十代崇神天皇の御代、天皇は、大和の国、三輪山の麓の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)で天下を治められていました。国中に疫病が蔓延し、民は土地を離れ、朝廷に(そむ)く者もありました。崇神天皇は「同床共殿(どうしょうきょうでん)神勅(しんちょく)」に従い,御殿の中に天照大御神をおまつりしていましたが、その神と御殿を共にすることに畏れを抱き、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)磯堅城(しき)神籬(ひもろぎ)を立てて大御神をおまつりしました。天皇は天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)をまつり国の平安を祈りつづけられ、次第に疫病も治まり、天変地異もなく、平和な世の中になってきました。ところが、都から遠く離れた地方には,未だ法律に従わないものがいました。そこで、崇神天皇10年、4人の将軍を選び,北陸道には大彦命(おおひこのみこと)、東海道には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、丹波には丹波道主命(たにはのみちのぬしのみこと)、西道(山陽道)には大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を遣わされ、翌年、各地方を平定、国中が平和になりました。大吉備津彦命は第7代孝霊(こうれい)天皇第3皇子で亦の名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)といわれ、「吉備の中山」の麓に「茅葺宮(かやぶきのみや)」を作って住み、 281才の長寿をもって吉備地方を治められました。以来、大吉備津彦命は「吉備開国之神(きびかいこくのかみ)」として人々に崇敬されています。

七世紀後半以降、吉備国は,分割して備前・備中・備後とされ、備後国は、おおむね現在の広島県東部にあたります。その備後国の品治郡(ほんじこおり)宮内(現福山市新市町宮内)虎睡山(こすいざん)の麓に備後一宮吉備津神社が鎮座し、
御本殿正殿には大吉備津彦命、
相殿(あいどの)には大日本根子彦太瓊命(おおやまとねこひこふとにのみこと)
(孝霊天皇)、
細比売命(くわしひめのみこと)稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を配祀しています。